Webデザイナという職種の地位を最近考える。バブル後半から崩壊期あたりに少しもてはやされた記憶があるが、それ以降余り脚光を浴びないものになって来ているような気がする。
その代わりに、扱う業務が増えている。Webデザインをやっていると言うために知っておくべき知識が増え続けている。しかもプロであると自覚する者ほど、高い壁に囲まれる。ユーザインターフェース(UI)デザインから、サーバサイド、データベース、セキュリティから法制度に至るまで、情報を扱うために知っておくべき全てのことを知っていると期待される。
ある意味で、「デザイン」が「グラフィックデザイン」から本来の「設計」を意味する言葉に変化してきていると言えるのかもしれない。多くのプロのWebデザイナが、その変化に追従し追い越そうとして多くの時間をかけている。
しかし、まだこの現状を理解している人がクライアントサイドには少ないのかもしれない。Webサイトの構築を頼まれてから、それに着手するまでに説明しなければならない事柄が減らない。まだまだWebサイトを構築すると言うことの意味が浸透していない。
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誰もがこぞってWebサイトを作り始めた時、それは紙の会社案内をデジタル化しただけが主流だった。全世界に開かれた玄関を作りましょうという合言葉に、扇動された時代。けれど、ただ単に皆と同じに玄関を作っただけのところは、Webという海に埋没して行った。その玄関に、より先進的な「使い方」を付加したところだけが歴史に名を刻んだ。
次に、使い方にバリエーションが生まれてくる。情報提供だけではなく、Webアプリケーションとしての動き。商品の品揃えで勝負する方向性や、既存ブランド名を冠した大規模化の流れ。既存の市場を押さえ込む手法が至るところで適応された。大企業が、プライドにかけてWebに投資した。
しかし、結果は思ったようには付いて来なかった。Webは今までのコマーシャル界の常識では計れない魔物が住んでいる。それはTVのように受身で情報を受け取るしか道がない訳ではないという点だ。どんな有名な企業がサイトを作っても、ユーザは見向きもしないということが常識的に起こった。
更に、まだまだ回線の細さの影響を、サイト開発側が見積もれていなかった点も大きかった。どんなゴージャスな絵を配置しても、単なる絵を見るために数分間待ってくれるユーザはまだ育っていなかった。
そうこうしている内に、バブルがハジケて、思ったほどの効果の上がらないWebサイトは収束ラインに乗せられる。多くの投資をかけても効果の上がらなかったサイトが、予算削減の中で効果を高められるはずもなく、殆ど注目もされないまま、閉店通知メールが行きかった。
多くの既存有名大企業が手がけたWebサイトが閉鎖に追い込まれる中で、新興企業はユーザの動向を学び、素早く動き、改良に改良を重ねて地盤を固めていった。そして、2004年。この日本で、ネット系の野球のオーナー企業が誕生した。ネットがビジネスにならないと撤退した大企業はどんな想いで、このニュースに触れたのだろう。
余り報道も検証もされないが、撤退した企業やサイトには、何かが足りなかったのだ。新興企業が発展できるだけの土壌があったにも拘わらず、既存大企業が投資を繰り返したにも拘わらず、大手が敗退した。それは、先見性と投資に関わる分野であり、真の意味での「デザイン」と無関係ではない。どんな機能を実装すべきで、どこに投資すべきかを語るのがデザインなのだから。
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多くのネット系企業が大きくなっているものの、取り残された分野がある。Webデザイナ業界。先述の多くの技術が必要な分野でありながら、頭の使い方次第では野球チームのオーナーになるポテンシャルを持つにも拘らず、予算が付かない分野。「Webをデザインする力」が正当な評価を受けていない。
Webデザインをやっています、と言っても通じない場合がまだ多い。ホームページを作ってます、と簡単な揶揄で説明すると、「ウチの娘もこの前作りましたよ」とか言われる。オリンピックレベルから、幼稚園生のカケッコまでが一つの言葉で語られる奇妙な世界がここにある。
「デザイン」をグラフィックデザインと同一視し、非論理的だという先入観だけで卑下する人達も未だ多い。特にエンジニアの中に多い。データベースからデータを抜き差しするだけでは、ユーザは魅力を感じてくれないことに未だ気が付かない。デザイナがデータを「使われる情報」の形まで昇華していることに目を向けない。使われる情報を設計するよりも、Javaを使える事が偉いと未だ思っている。ユーザは何で作られているのかなんて誰も見ていないのに。
開発という大きな仕事をした人達を扱うメディアにも問題を感じる。これほど多くの先人が自分のスキルを披露している分野があるだろうか。なのに情報提供した人が報われない。一度、寝ないで仕上げたサイトのノウハウを、雑誌の一特集の一部分として扱われた。挨拶もなく、正直食い物にされたと感じ不愉快だった。努力した人に敬意を払わずに、自誌の売上げだけを目指す。業界を育てる気が無いのかと疑った。
Webデザイナの仕事の何たるかを説明しないまま進んできたおかげで、Web屋はギリギリの予算で良いモノを提供させられている。知識のランクを示す言葉も存在しないし、何をデザインしているかも理解されない。アイデアもテクニックも自動販売機のように大量に引き出されて当然と思われている。多くの場面でディレクタ的存在が求められているにも拘わらず、メディアと学校から初心者だけが大量生産されている。予算の付かない現場は教育部門としては機能できない。それらが悪循環して、更なる低予算長時間労働で業界が疲弊している。
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予算について言えば、Webの世界はかなり奇妙な構造になっている。最初に提案を出させられる事が多いが、実はそこが一番クリエイティブで知識集約的な作業である。そして予算を確定して、その後に詳細設計をする際に、どんどんと機能追加が行なわれる。しかしリリース日は確定していて動かせない。走り出したWebプロジェクトを止める事は難しく、結局のところ予算超過部分を個々人の生活を犠牲にして受けざるを得ない。
こんな買物は他にない。システム開発も似たような側面を持つが、機能追加の揺れ幅が異なるように感じる。それはシステム開発がUIの部分を余り考慮せずに進めてきたからであろう。イントラ系のように、多少使い勝手が悪かろうと、使えと指示すれば使い続ける従順なユーザを想定していたためである。しかし、Web、特にB2Cは違う。そしてその変化はB2BやinBの分野にも広がっている。
だからそろそろ予算の立て方、逆に見えれば見積もりの立て方も考え直した方が良い時期になってきたのかもしれない。機能と予算の関係を、客観的に見つめる方法が必要なのではないだろうか。
例えば、100万円の車を買うときに、75万円しかないと値引き交渉する人はいない。仮に、3/4の予算だからといってタイヤ3つ分を購入することが出来たとしても、四輪でデザインされた車が、3/4の機能を発揮するはずはない。75万円の価格帯の車を選ばざるを得ない。
Webサイトのデザインを考える時、Webデザイナは恐らく誰でも、最良のサービス提供が出来る形を想像する。それが予算と合わないとき、本来ならば予算額を聞いてからそれで出来ることをデザインし直すべきなのだろう。ちょうど車が価格帯や嗜好帯(?)が細かく分かれて作られているように、一つ下のレベルの提案を持っていくべきなのだ。
歴史と記憶に残るWebサイトの裏には、過激なまでの提案(多くは業務改革に近いもの)をしたWeb屋と、その提案を受けた担当者が共鳴して、必死で予算を確保するというドラマが、数多くある。上のレベルの提案を実行したければ、上のレベルの予算が必要なのである。そして、歴史に残るサイトは、そうしたサイトだけだ。皆と同じ予算で同じことをやっていて名を残すことはできない。
Webサイトデザインの面白いところは、提案をしてくれと頼まれて、思いっきり夢を膨らましてサービスを考えることが出来る点だと思う。ここの商品を見てもらうにはどんなUIがあれば良いのかを考える時、それが醍醐味だし一番楽しい。そして、かなり予算をオーバーしたプランだと自覚していても、クライアントに受け入れてもらえる時がある。一緒に走れた時の喜びは大きい。それを一度でも経験してしまったら、予算額ギリギリの夢のないプランは持っては行けない。
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今、Webに関わる人達は価格競争に入る余力はないと思う。人情系が無視できないのは知っているが、正当な報酬はちゃんと確保すべきだという、当たり前の結論に漸く辿り着いている。兎に角、相手にする技術知識が膨大すぎる。クライアントを満足させたければ、相当量の技術吸収が必須なのである。逆に様々な技術があやふやだと、クライアントに迷惑をかける可能性が高まってきている。
そして、もしもそうした事態が起こった場合、小さなWeb屋では対応が出来なくなる可能性だってある。例えば100万で開発を受けたが、そのシステムで毎月1億のお金を扱うとする。そこでバグがあって業務を数時間でも止めなけばならなくなった場合、その時の保証はどうするのか。全てその開発担当のWeb屋の責任なのだろうか。契約上はそうかもしれないが、個人的には疑問が残る。
これも余り注目されなかったが、先月経済産業省がIEでしか見れないサイトは不適切であるとコメントした。この一言は、多大なブラウザ依存性テストが必要であると言っていることに等しい。これだけで、Web屋の責任は何割か増加した。しかし予算が増える兆候は見えない。
車の場合、高級車であれば走行テストや衝突試験等の性能テストや安全性の確保に対して相当の手間暇をかけている。それがあるから高いのであり、車業界には新規参入が難しいと言われる。弱小企業は既定の数の車の衝突試験が出来ないからである。何かを保証するということは、それだけ価格に跳ね返るのが常識なのである。
そう考えると、Web開発も扱う金額に対して比例する保証サービス的なものに変わっていくべきなのかもしれない。もはや車のように直接人命に関わるものと、Webのように情報の形をした金銭を扱うものとに、実質的な差はないだろう。慎重を期す必要は共通している。
初期開発費と、扱う金額に比例したメンテナンス費が保証されるのならば、Web屋の責任は拡大するが、その分地位も向上するだろう。必然的にかなり専属的にお付き合いをするので、提供できるサービスの質も向上するだろう。逆に取扱額に比べて過小な開発費しか出さないクライアントは、そのサービスに対する責任を放棄しているとさえ見なせる。恐らくそのクライアントに付き合うWeb屋を探すコストが増大し、ユーザの視線も冷めるだろう。
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きちんとしたWebサイトを構築するためには、きちんとした環境が必要である。特に、ここまでBlogが一般的になり、単なる情報共有型サイトが手軽に構築できる時代になったからには、それ以外のサイトには「機能」が要求される。それなりのサイトを作るには高度な技術的基盤と先見性と人間(ユーザ)への洞察が必須だ。
もはや趣味的な延長線や個人プレーでは作り得ない領域に入っている。きちんと分業体制の組める知識集約型の組織が必須だ。F1レーサが自分のマシンに二流の部品を使うだろうか。そこでケチってレースで負けたら何の意味もない。先進的Web屋のいる世界は、今後そうした業界になっていくだろう。
革新的なことをWebでやりたくなったクライアントが現れた時、どこにもそんな体力がありませんというのでは時代が動かない。その損失の大きさは計り知れない。そのためにも今ある優秀なWeb屋がきちんと生き残っていける仕組みが不可欠になって来ている。
優秀な人材が継続して流れ込んでこれるような業界。Webが本来持っているポテンシャルを、より大きくしていく活動が必要になってきている。もはや数社のWeb屋が潤っているだけでは、そうした人材流入が起こらない気がする。業界全体として何か手を打たなければ。
Ridualの次期版の構想を練りながら、ツールに留まらない動きが必要だと思ってきている。そんな話をRidualを肴に色々な方と話し始めている。まだまだ有志の間の情熱論議に過ぎないかもしれないけれど、互いからの感化と共感の輪が広がって行っている気がする。2005年が、何かが変わり始めた年と評価されるようになって欲しい。
以上。/mitsui
ps.こんなところで引用されてました、嬉しい!(Google偉い!):
芸術科学論文誌 Vol.4 No.3 pp.87-100
Webデザインにおける制作プロセスの変容と創造性の行方
ソフトウェアによる支援と代行の狭間で「つくること」はどう変わるのか?(PDF)
初出)[1666]Web開発の今後 : 日刊デジタルクリエイターズ