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[007] 後進育成

大学を出て最初に就職したのが DEC であった事を、いつ思い返しても幸運だと思う。何が恵まれていたのか、それは人材とそれを育くむシステムとインフラだった。

 私が入社したとき、数年上のK氏がインストラクター役でついてくれた。大学では NEC 98シリーズを少しいじって、モータを動かしたり LaTeX で修論を書いたりしたレベルの知識の私である。OSも規模も余りに違う世界でとにかく知識の吸収だけで精一杯であった。

K氏とはその後三本ほど二人プロジェクトを続けることになる。最初はテスタとして環境に馴染ませてくれた、その後徐々に開発経験に入り、そして少し大きめのプロジェクトへ。それまで彼がプロジェクトリーダである。そしてその次、彼がエンジニアで、私がプロジェクトリーダという配役になる。私はそこで仕様検討からバグ管理、他部署折衝などの経験をする。彼はといえば開発の中で一番困難な部分を担当し開発に遅れがないように、まさにバックアップをしてくれていた。そして、その次のプロジェクトは私一人のプロジェクト、そしてその次は新人が私の下につく。約四年かけて、私はエンジニアからリーダ、そして育成係へと育てられた。

なんて贅沢な育成方法だろう。私は確かに覚えの悪い子であり、K氏についてもらえた事は他の誰よりも恵まれていたことではあるけれど、これは私に特別にチューニングされたカリキュラムではない。人を育てるにあたって、こういった土壌が存在した会社だった。

先日尊敬する Web クリエータ氏が書いていた、「偉いと言われたくはない、凄いと言われたい」。直ぐに思い出したのがK氏とDEC創設者ケン・オールセン氏。オールセン氏には社長時代でも名刺の肩書きは「エンジニア」と書き続けたという逸話がある。「凄い」ということと肩書きは全く関係のないことなのだろう。でも、そうそうできることではない。

もう一つ私の所属部署には恐らく他には余り無いだろうものがあった。それは使命のようなものとその終焉への意識。業務内容は米国製品のローカライズ開発だったが、どの開発も自分達が作りこんだモジュールを米国開発にフィードバックするという国際化(I18N:Internationalization)を意識していた。余り成功例は出せなかったのだが、これは自分達の仕事(I18N)が成功したら、自分達の仕事がなくなるということを意味していた。米国で開発して、日本に届けられて日本語化して、それが出る頃には米国で次の版が出ている、そんな繰り返しにピリオドを打つために、自分達の仕事をなくすために懸命になっていた。そこには、自分達の仕事にどんなに誇りがあろうと、これを繰り返すことを「良し」としない姿勢があった。ローカライズ開発に誇りを持ちつつ、いつか米国製コードに加筆するだけはない世界へ行こう、いつまでも同じ事をやっていかないゾという決意があった。自分の仕事を終わらせるために、仕事をする。

この2つは、実は私の中では大きな宝物になっていて、Ridual の開発コンセプトにも影響を与えている。Web 開発を見返して、後進育成を意識したプロジェクト管理ができているケースは如何ほどであろうか。持ち回りでリーダをやって感化し合えるチームがどれ位あるだろうか。経験しなくては会得できない技術の存在を知りつつ、後進にそれを体験させているだろうか。DECでの経験はバブリーな裕福な会社だからできたことではない。DECは私の入社時あたりをピークに急激に下降線を辿っていく、日本でも二年続けて大規模な希望退職を募り、最終的にはコンパックに買収される。そんな状況の中でも、こんな私でもキチンと育てなければ駄目だと思っていたのである。これは、DECが解体後優秀な人材を業界に放出したことから「DEC大学」と呼ばれたこととも無縁ではないだろう。

Web開発をやっていて感じていた。いつまでこんなことを続けるんだろう。面白いアイデアが出てもそれに着手する前に片付けなければならない非本質的な仕事が山積みだ。勿論経済性で割り切れば単価の低い人にそれを頼めばよい。しかしその人はハッピーか?と自問してしまう。それは多分Webの世界だから特に思うのだと思う。だってB2Cをやろうと思えば、隣にいる派遣社員は格好のユーザビリティ・テスタだ。彼や彼女がこのサイトをどう操作するのかを見る方が遥かに有益だし、目から鱗の意見に出会うこともある。そばに立つ誰もを巻き込んで「凄い」サイトを作りたくなるのが本来の姿だと思うのだ。

いつか非本質的な情報整理等は自動化される時代が来る。来なきゃ困る。そして、いつかつまらない文句ばかりを言う無理解なクライアントはいなくなる時代も来る。来なきゃ困る。Webは最早情報流通経路として自立している。その担当者がその会社の戦略や世界(世間)から無縁のまま、趣味や無理解で決定し続けうるはずがない。デザインされた情報が届けたい対象に届くのだと気付く日は来る。その時、私達は何処に立っているだろうか。その日のために何を準備できるだろう。

Ridualは私達が、NRIがではなく Ridualチームが、出した私達なりの「答え」だ。Ridualはファイル(ページ)という観点から見た情報整理手法ともいえる。概念的にはまだまだ足りない部分がある。ページという枠からはみ出したコンテンツという概念が徐々に大きくなっているからだ。でもその操作方法や整理方法のアイデアがまだ浮かばない。だから今はこの手法で、この先の世界を見たいと願っている。

多分未来は私が思っている程は遠くない。すぐにやって来る次世代の人達には、今とは違ったステージで、今とは違った壁に立ち向かって行って欲しい。「まだそんなことやってるの?」等と言われることなく。

以上。/mitsui

注)