Ridualの話をさせてもらうとき、幾つかのパターンで話させてもらう。Webサイト作りに一番大切なのは時間である、そして最終成果物を見て、今現在何をすべきか考えるべきである、と。
時間の話はとにかく立ち止まっては駄目だの一言に尽きる。人は考えるものである、だから時間を与えては考えてしまう。逆説じみているが、サイトはアイデアが浮かんだならそれが旬である、出来得る限り迅速に作り上げた方が良い。どんなに更に良いアイデアが浮かんでも、全体の調整からし直すのであれば黙った方が良いときもある。完成しない作業はデザイナを殺す。
最終成果物の話は、先日は国語のテストを例にして話した。国語の読解問題。問題文を読んでから設問を見るか、設問を読んでから問題文を見るか。決められた時間内に迅速に答えようとするなら、大半の人が後者を選ぶだろう。サイト作りも同じだと思う。クライアントが抱えている状況(問題文)を読んでから、どうしましょうかと考えていては駄目である。ドキュメントの提出期限が迫ってから、どういったフォーマットで資料出せばいいかと考えながらワードを開いては駄目である。運用を開始してからログの解析方法やそのフィードバックを考えていては駄目なのである。何事も先手先手で先ず設問となることを頭に入れてから、目の前の状況に接していくべきだ。
そうした体制作りは、アウトプットとしては提出物の体裁であったり種類であったり数だったりするのだが、多分先ず「設問を読む」という部分に理解や共感が無くて形から入ってしまうと、加速装置のつもりのワークフローが、単なる負荷になってしまいかねない。こうあらねばならない、と頑なにデザイナがワードやエクセルで青くなっているのは哀しい。
自分達がやり続けていける体制を早くから確立できたところは成功に進んでいける。成功は経済状況ではない。仕事をしている開発者が活き活きしている状況を指す。何のために働いているのか。まるで苦行のようなものだと割り切っている人にもたくさん会って来た。労働はエンターテイメントではない? 正直言って賛成できない。店員が輝いていない店で、好んで買い物をするだろうか。
先日のとあるセミナーで、Ridualをお見せしたときに衝撃的なコメントを頂いた。「仕事をしていくうえで、希望が持てました」。別にRidualを使うと、薔薇色のサイト構築環境になる等と誇大広告をした訳ではない。サイトマップが自動生成できて、それなりのファイル解析が行える。そのためには色々と憶えることも多々ある。でも既存のツール群と連携する道は開けている。それは例えば、RidualではXMLとJava。そういったいつもの内容を話しただけであった。
このコメントは、私の中で、当たって欲しくない予感を更に強めた。最近サイト作りって魅力が薄れてきているんじゃないか、という予感。華々しいことをしている人はとっても限られていて、新しくこの世界に入ってきた人は昔の雑巾がけみたいな修行時代がずーっと続いているような予感。アイデアは浮かんでも、それを実装するための時間が別のことに丸呑みされて悲鳴をあげたくなっているのに、それでも声を押し殺して耐えているような予感。
どんな時にそんな予感が背筋をつたわるのか。例えば、自分でサイトデザインしていてブラウザチェックする時。例えば、読まれないと分かっているドキュメントを山ほど書かなくてはならなくなった深夜のオフィス。例えば、子供と丸々一週間会えないとき。子供に誇りたい仕事の内容に不毛感を感じるとき。
でも自分でそんな嫌な予感を打ち消すように、上や前を向ける時もある。優れたサイトに出会った時。優れたサイト開発武勇伝に触れた時。活き活きとした誰かに業界内で会えた時。
授業参観なんかで学校の子供達に直面するとき、目が空ろだと気が付くと悲しくなる。サイト開発者がヘトヘトで参っていると、話していて辛くなる。もっと楽しい世界だったじゃないか、と叫びたくなる。いつからこんな色に染まってしまったのだろう。
昨年3Dのセッションに行ったとき、反対の意味で背中がゾクゾクした。活気があるのだ。7年ほど前のWebのセッションを思い出した。その時、そこにいる人たちは、基本的にはWeb屋さんではない。ゲーム屋さんだ。ここに流れていってしまったんだ、と直感した。しかし、目の前で話されているセッションの内容は、3Dコンテンツの作成素材や完成映像などのリソース管理システムの話だ。Webでもコンテンツマネージメント系の話は面倒で自由度が少ないので敬遠されがちだ。しかしそこでは、活気を失わずに聞かれている。
3Dの世界は、レンダリングに時間もCPUもかかるので、その分無駄にできない。誰もが初めて見る映像にチャレンジできる土壌もあって、管理系には力が入る。そういった体制がしっかりと根付いている。しかも、発売してみないと莫大なコストの回収ができるかどうか分からない、というリスク系チャレンジ。活気ある者たちを惹き付ける魅力に溢れている。しかし、多分それだけじゃない。やはりゲーム開発会社の人の活かし方が上手いのだと思う。育て方が上手いのだと思う。楽しんで開発しているんだと思う。
「仕事をしていくうえで、希望が持てました」、とコメントした方は、現実のサイト開発に何を見ているのだろう。延々と続くエンジニアとデザイナの確執だろうか、延々と続くブラウザとの格闘だろうか。延々と続く散在するファイルとの闘いだろうか。でも、多分まだこの業界から離れられないのは、やはりWebに魅力があるからだろう。
情報にアクセスすること自体が大変だった数年前から、ビデオやライブが流れるようになるまで、たった数年。日々流れてくる情報に一喜一憂し、時に流され、自分を見失いもするが、助け手をネットの中に見つけたりもする。情報の道路工事現場に輝く魅力は、実は少しもくすんではいない。だからここから離れられない。そうした仕事をすることに誇りを持てる、だから更に離れ難い。
開発ツールやメンテナンスツールは色々と出てくる。でももっとデザイナを守ってくれるツールが出て欲しい。Ridualに込めた願いである。私たちは楽をしたいんじゃない、良いモノを作りたいんだ。
最後にWebデザイナの女工哀史的な状況を想う度に、浮かんでくる詩を。僕らはもっと活き活きできる。
ぼろぼろな駝鳥
何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
足が大股過ぎるぢゃないか。
頚があんまり長過ぎるぢゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかりを見てゐるぢゃないか。
身も世もないように燃えてゐるぢゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いてくるのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
あの小さな素朴な顔が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。
これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。
(高村光太郎-「道程」より)
以上。/mitsui