大学時代、美術研究会に所属していた。学内では唯一の美術系サークル。いつも授業が終わったら、部室に行き、だべる。油絵を中心にしていたが、年1回の展示会の前以外は筆を洗うことも稀。だらだらと、もてる限りの時間を無為に贅沢に使っていた。
それでも、週に1回2時間だけ、そのだらけた部室が緊張感溢れた空間になる。デッサン会。大抵は石膏を部室の中央に置き、皆で三脚で取り囲む。モデルを雇える金は無かった。用意するものは大きなスケッチブック、鉛筆、鉛筆を削るカッターナイフ、そして練り消しゴム。十数人が無言で、鉛筆と紙が擦れる音だけが響く。決して楽しくない、でも次回も来る。毎年もうやめようと議題にはなるが、無くなることは遂になかった。強制参加ではない。だから嫌な人はその曜日だけは部室に来ない。
絵を描かない人には分からないだろうが、デッサンは描く対象を直ぐ描き始める訳ではない。暫く対象を見つめ、構図を決める。その日に自分が取組むべき技法みたいなものを設定する場合もある。今日はこんな感じの仕上がりにしようと心に決める。柔らかい鉛筆で進むのか、硬質のもので進むのか。最初に鉛筆の先が紙に触れる前に沢山のことが実は進んでいる。
全体像をざっくりと描き、細部に進む。途中で何度も鉛筆を指先に立て、壁や柱などの定点からズレがないかを確認する。目を細め、強度の近視状態で対象と絵を見比べて、全体像の印象に差がないかを確認する。対象の理解度も自分の独りよがりではないことを確かめるために、対象の後ろ側の見えない部分まで見に行く。布とかは自分で勝手に想像してシワを描いたりし易い、後ろからのつながりも見て初めてどういう構造かが分かったりもする。
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楽しくないのはその独特の雰囲気だけのせいではない。元々描くことは好きな連中が集っている。描くこと自体は面白い。辛いのは、自分の力量を自分の目で自覚させられること。そして、デッサン会は描くだけでは終わらないこと。必ず合評会をやる。参加した人全員の作品を一列に並べて、作者が想いや製作意図、描きながら気付いたことを語る。そして回りがコメントする。
語るも聞くも辛い。上手いかどうかは一目瞭然。正確に描けているかは誰の目にも明らか。自分の作品がまな板の上に乗っている時も辛いけれど、友人のがそうであっても色々と気まずい。こんな言葉を使うと傷つくかとかも考えるが、何故そう見えるのかが分からないときもある。それでも言葉にしなければならない。
下手だとか、かっこいいとか主観的な言葉だけのコメントは、冷ややかに受け止められる。何がそう感じさせるのか、何が本来感じ得るものを妨げているのか、何に気をつけるべきか、それなりに真剣に考える。新入生が来る時期は特に真剣になる。新人の方が上手かったりするし、全然絵になってなかったりする場合もなる。でもそれにもそれなりに理由がある。そこを読み取るように努力してコメントする。そうした評価姿勢は、自分の作品つくりを深く見つめる目をもたらす。
自作なのに、何故そんなに頭でっかちなのか、なぜ手があっち向いているのか説明ができないこともある。見えたままに描いているつもり、でもそうは見えるはずがない。一生懸命描き込んでいって、合評会で前に並べた瞬間にバランスが崩れているのに気が付くこともある。恥ずかしくて帰りたくなる。コメントを付けられて、反論したいのに反論できない。力の無さを痛感する。地獄のようにも感じる時間。それでも他人からどう見られるのかを聞きたい自分もいる。マイナス点を並べられるのを屈辱とするなら、これほど屈辱感を味わう時間はない。色々な言い訳は喉元まで出てくるが、飲み込むしかない。皆が同じ条件で描いて、そのアウトプットが並べられている。
でもその屈辱が、上手くなりたい力になる。そうして何かが積み重なっていった。自分が何かを習得していくプロセス。それはいつだって打ちのめされる時が最初のステップだ。変な自信をもったまま、新たな何かを身につけることは無かった。だから、最初にガツンとやられる方が好きになっている、嫌だけど。
また、デッサンといっても、全員が写真的写実的なものを目指した訳でもない。後期のピカソみたいなデッサンを続けたものも居れば、スーパーリアリズムを目指した者も居る。様々な「絵」を許容するという素地も育てられた。合評会は展示会の後にも行なうし、展示会場には作品ごとに紙を用意しておいて、来場者も含めてコメントを求める。全然プロの域ではないけれど、広く浅く様々な「アート」に触れ、コメントする機会を持てた。これでなきゃイケナイ、という感覚は合評会で消されたのかもしれない。アプローチの仕方は幾らでもあり、そのレベルも何段階もある。
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純粋なエンジニアと仕事をすると、私は大抵衝突する。私の「もの言い」が先ず嫌われる。目の前の評価対象をできる限り端的に言葉にする。曖昧に優しく間接的になんて思いもしない。曖昧な評価は指針を生まない。大抵の場合、それが耳に優しい訳がない。傷つけるベクトルを持っている。頭から、そうした傷つくことには配慮していない。傷ついて、そこから這い上がってくるかどうかにしか興味がない。私のアウトプットも厳しき審査して足りないと所をガンガン指摘して欲しい。チーム内評価で散々なものは、客先でも説得力はないし、いずれにしても一緒に先には進めない。私にとって進行中のプロジェクトは成功で終わるべきもので、その達成だけが目的になることはない。進みながら次のことを考えているし、一緒にそこまで進める仲間は常に探している。絵に対しても変な遠慮は不要だし、バックエンドを作っている人間にだけ優しくすべきとも思わない。お互い茨の道を進みつつ、「いいもの」を仕上げたい。
とは言っても、余り衝突を繰り返すのは褒められた話ではない。原因を色々と考えた結果、この合評会に辿りついた。私はあそこで訓練されてきたのだと。でも多くの人はそうした場で訓練されて来ていないのかもしれない。褒められて育てられて来たのかもしれない。
エンジニアは「(プログラムソース)コードレビュー」というプロセスで自作を他人の目にさらして評価を受けることができる。多くの真のエンジニア達はその効用を説くが、実は現場では余り広まってはいない。理由は時間がかかるというのと、本当にレビューをしたら傷つけてしまうから。だから、後進育成という本来やるべきことを見据えたプロジェクトでしか、コードレビューは機能していないと思っている。だからこそ、オープンソースプロジェクトでコードを公開する方々の勇気には頭が下がる。
でもHTMLデザイナは、そういった意味では最も勇気の要る職業かもしれない。毎回右クリックでソースを見るような人は同業者だけかもしれないが、殆ど全てが公開されている。良い点も、工夫したところも一目瞭然。このあたりはデザイナとエンジニアの隔たりの大きな要因になっている可能性がある。
エンジニアは仕様書レベルのレビューは少しは多くの人にしてもらえるが、コードのレベルでは、先の理由から全くされないか、少人数の仲間内だけに限られることが多い。それは「屈辱」の場面に出会わないという点ではハッピーなことかもしれないが、実は哀しむべき側面も持つ。自分の資質を他人から真っ向から評価される経験がないことは、大きな飛躍がないことになりかねないからだ。「上手くなりたい」と願う力は、好調なときよりも絶望寸前のときの方が強いように思う。
自分の作品が評価される経験が少ない者と仕事をすると疲れる。どんな批評も非難や却下と取る。「いいもの」に進む前に、くだらない誹謗中傷論を経なければならない。しかも、五月蝿い者ほど、結局アウトプットが少なくて、プライドだけが高かったりする。批評されているものを改善する方向にエネルギーを使わずに、批評した者を攻撃することにそれを費やす。その結果ただでも少ないアウトプットがより少なくなる。もう貴方はいなくていいです、と叫びたくなる。
いたわり合える和やかなチームも必要だろう。お互いに言葉一つにも気を配れる理想郷のような、母の懐のような環境も良いだろう。でも、「いいもの」を目指すという絶対的な信頼感の下で、互いのアウトプットをギリギリまで評価し合える緊張感のある現場も理想的なのだと信じる。過去何度かそんなチームで仕事をしたが、その緊張感の心地よさは今でも忘れられない。なんだかとてつもなく「いいもの」が生み出せそうな予感に満ちていた。
こんなことを書いている間にも、これらが達成できているベンチャー企業やユニットがどんどんと「いいもの/いいサイト」を作りながら、「お先に!」と軽やかに進んでいっている。互いに批評できるタフさ、いいものを世に出す基盤のように感じられる。
以上。/mitsui