さして料理が好きな訳でもないけれど、億劫でもなくなって来ている。レパートリーは微微増という感じで、お好み焼き、たこ焼き、スパゲティ、チャーハン、鯛のスープにステーキ。
キッカケは「故郷」。余り感じられないようだけれど、生れは大阪。20歳になるまで京阪沿線暮らし。大学を口実にして実家を離れたクチだ。結婚して子供が幼稚園に入ると、その関係で「親」達との付き合いがジワジワと始まる。バザーとかで出店を出すことになると、何故か関西出身者の出番になる。「大阪生れですか?、じゃあ、お好み焼きとかたこ焼きできますね! 助かりますぅ」とか言われる。なんでやねん。
Webサイト作りでは喧々諤々やるくせに、こういうのは断れない。大抵、熱い鉄板の前に立つ事になる。しかも、幼稚園のバザーとは言え、曲りなりにもお金を取って販売する訳だから、下手なものは売れない。チャンと家で練習する。
小麦粉が薄力粉というパッケージで売られているのを知るというレベルからスタート。キャベツを刻んで汗だくなって家族をモルモット。昔食べた味を思い出しながら、あれこれと無い知恵絞って奮闘する。凝り性が功を奏して、子供たちの絶賛を勝ち取る。「パパのお好み焼きって美味しいよね!」等と持ち上げられれば、豚もおだてりゃ...の境地。「週末に一度はお好み焼き」が定着した時期もあった程。
最初は不慣れもあって面倒だけれど、ルーチン化してくると色々と考えることもできるようになる。そこで気が付いたWeb屋にとっての料理の効能。ストレス発散。私は飲み屋で愚痴るという癖を習得しそこなったのもあって、結構色々なモノを溜め込む。でもキャパシティには限界があるので、色々と爆発寸前になる。それをキャベツが受け止めてくれる。
様々な蓄積された不平不満や憎悪に近いものが、キャベツを切っていると軽減される。基本的にぶつ切りなので神経も使わない。ただ包丁を上下に動かし、刃先がキャベツの表面に触れた瞬間から、ザクッと切断されるまでの時間に手に残る何ともいえない感触。平和的破壊活動。それでも最初はブツブツと独り言を言いながらザクザクと切っていたのだが、最近は無言で切り刻む。家族4人分のキャベツを切るのは数分だが、すっきり爽快。
嬉しいことに、切る工程にどんな思いが混じろうと、その汚い部分までもは食事には伝達されない模様。子供たちは、その見栄えの悪いお好み焼きを嬉しそうにほおばる。日頃Webでは実際に操作している姿を見れないせいか、リアルタイムの反応がまた嬉しい。料理を一回休めるので、妻も上機嫌。
たいした料理を作らないので、食材は基本的にありものを使う。チャーハンなんかは毎回味が違う、というよりは同じモノは作れない。前夜に残ったものがベースで、それで何とかする。その時に効いて来るのは、実は最初に冷蔵庫を漁る瞬間。どの食材を使うかがそこで決まり、それをテーブルに並べたら、もうルーチンワーク。考えない、どこで何を混ぜるかと火加減程度しか頭は使わない。冷蔵庫を開けた瞬間のリサーチで、今回の味が半分決まっている。
だから、途中で妻がやってきて、「これも使って欲しかった」などと言い出して、何かを机の上に置くと、もうパニック。まぁ大抵は、それは次回、という話になるのだけれど、ここもWebと同じだ。作り始めてから、新しいコンテンツを入れ込んでくれと言われても辛い。最初に入れ込むコンテンツは全部並べておかなければいけない。私は料理では開発末期の仕様変更は認めない。ガンと拒否する。「駄目なものは駄目」、「遅すぎ」、「それは次期フェーズで」。仕事で言えない言葉は、気分がいい。
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そう考えると、Webと料理って結構似ている部分が多い。旬の素材とやる気が前提だし、賞味期間だってある。一度作ったら終わりという訳にも行かない。同じものが延々続けば飽きてくるし、美味しければ再度その店に行く。不味ければ二度と行かない。思い切り美味しさを堪能したければ、食材の良し悪しにこだわる。料理人の腕は、根性論では越せない壁があり、技術を常に磨く者が喜ばれる。同じように見える料理でも、隠し味やら細かな部分で歴然とした差があって、それを認知できる客層も実は大きい。頑張っていることは伝わっている。
また、父親が厨房に立つことは子供たちに良い影響を与える気がする。日頃父権がどうのこうのと話したとしても、料理の形になれば旨いものは旨く、不味いものは不味い。隠し様の無い状況で、親子が色々と話ができることの意義は大きい。イマイチだねと生意気な評価を下す息子に、じゃあ作ってみろと挑発し、翌日には息子がエプロンしてアクセクしている日もあった。どうだ旨いだろう、と誇らしげな娘の顔も覚えている。Webの開発現場が活き活きしていた頃に同じような台詞のやり取りをしたのを思い出す。そうやって、互いの技術を磨きあい、批判力や判断力を育ててきた。
そして最大の共通点。作ることよりも、嬉しそうに食べてもらえたときが一番嬉しいという感覚。作ることに如何に熱中しようと、その行為自体はやはり自己満足なのだと思う。全ては美味しく食べる瞬間のためであり、その瞬間に全てが報われる。どう努力したかとか、どんなテクニックを使ったかとか、どんなフライパンを使ったかなんて、最終的には関係ない。旨そうにガッツく息子や娘の姿に勝るものは無い。
自分の関わったWebサイトを嬉しそうに語ってくれたり、立ち寄りましたよと声をかけて貰える度に、舞い上がりそうになりながら、もっと良いモノを、と心に誓う。
以上。/mitsui
ps.
家にも帰れない状況で、弁当暮らし。キャベツをきる気力も今は無いけれど、少し溜まってきているのが自覚できる。来週末にはいつもの倍のキャベツを切るかもしれない。