あるセミナーで、Webサイト(業務アプリケーション)開発の一番の問題は、技術ではなく組織的な部分だという話を聞いた。但し、Web的なデザイナとエンジニアという二極ではなく、クライアント/サーバ(C/S)システム的なクライアントエンジニアとサーバエンジニアという二極での話。とにかくその二極の人間達では、物事の考え方も、話す言葉も違う。なので、円滑なプロジェクト進行をすることが難しい、面倒だ、と。
その講演者の結論は、ならば一極集中型にすればよいというものだった。クライアント(基本的にPC)側の殆どの機能に、サーバエンジニアが理解でき記述できる技術(基本的にはJava)を使えば良い。そうすると、組織としてはサーバ側のチームだけで開発が進められる。つまりはチームとしてのまとまりが良くなり、問題が起こっても直ぐに対応できる。それがハッピーだ、と。
例えばFlashが良い例かもしれない。Flashがシステムインテグレータ(SIer)に浸透しないのは、同じ考え方に根ざしている。Flash/ActionScriptはSIerの標準的な開発工程管理手法との接点がまだ見えていない。タイムラインの概念も憶えなければならないし、そもそもが「体験を開発する」というコンセプトが馴染まないのである。技術的な問題以上に、人的或いは文化的な問題の方で敬遠されているように見える。Flashアプリケーションは、SIerにとって異文化/異民族なのだ。
単一民族的な組織で開発を進められることは、マネージメント的に考えると理想的な状況なのだと思う。仕事だけを見つめれば良い。仕様を担当者に割り振り、その一つ一つのタスクを管理していけば良い。担当者の個性や出自を考えるのは、最初の担当割振りの時だけで、その後はタスクの進捗度だけを見つめればよい。同じ言語文化を共有しているから話の通りも良い。生産性比較もし易いし、報告もしやすい。
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しかし、その話を聞きながら、何かしっくりしない感覚が残る。Webサイト開発の歴史を思い出しながら、同じ技術的基盤を共有した者だけで作ってきたものが本当に良いサイト(Webアプリケーション)だったのだろうか。デザイナだけで作られたもの、エンジニアだけで作られたもの、クライアント(顧客)の発想だけで作られたもの、開発企業の発想だけで作られたもの。数少ない例外的「傑作」を除いて、歴史に名を残していない気がしてならない。
私にとって、Webは自分と違う「文化」に接する出入り口だった。それが「デザイン手法」であったり、「Java」であったり「育児」であったりする。自己流と異なる、見事な「技」に触れたとき、その通路であるWebに感謝し、のめりこんでいった。
自己流が全てではない、という「気付き」。もっと優れた道は必ずある、という発想の原点。Webは、それらを私が自惚れる度に示してくれる。自分とは異なる価値観に触れる楽しさを思い出させてくれる。
そう言った「場」を開発するチームが、単一民族で可能なのだろうか。ユーザビリティをカヴァーすることが、本当に同種の人間達だけで実現できるのか。今までのデザイナとエンジニアの確執を見てきている者にとって、それは「おとぎ話」に聞こえる。
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技術は発想力をジャンプさせるものにもなるけれど、制限するものにもなる。Photoshopのように、今までシミュレーションできなかった画像処理を目の前で即座に試せるようになったときには、出来上がる作品が階段を一段上がったように感じる。しかし、皆が同じツールを使い始め、生産効率性云々と言い出すと、そのツールで出来ることをやろうと頭の中でブレーキが働く。
クライアント側でもサーバ側でも、偏った一部のグループが開発を進めると、どちらかというと後者のブレーキ現象の方が強く現れるのではないだろうか。単一の技術を中心に開発が進められると、評価軸がシンプルなので、どうしても開発生産性競争になりやすい。それは出来ることを出来るだけ早く、である。
Webはデータのやり取りだけをするアプリケーションではない。使う人を誘導する機能があってこそ活かされるものである。その「誘導」を、ナビゲーションといったり体験と呼んだりするのだが、それは本来、誘導される「人間」を理解していないと設計できるはずがない。技術者は時々忘れてしまうけれど、JavaよりもPhotoshopよりも、人間の方が奥が深い。そして、その深さは多様性があるが故だろう。
例えば、赤ん坊の「重み」は、一般の若い会社員男性には余り想像出来きない。生まれた時の 3Kg前後の重さが、親にとってどれほどの重みであるのか。大きくなる毎日でお母さんの腕にどれほどの負荷と喜びをかけているのか。そんなことが理解できるのは、実際に親になるなり、親戚の子供を抱いたり、それを喜ぶ友人に触れたり、今までにない経験や価値観に触れることを通してだ。
そして、そんな人達に響くWebサイトを作るには、そんな想いを知っていなければ設計できるはずがない。その知るべき知識の中で、サーバ技術等の占める割合は実はあまり大きくない。色んな人が居て、色んな感情がある、というのが最初の一歩だし、そうした異文化を自分の従来の価値観と整合性を取って行く舵取りが越えるべき壁だろう。そこを取り違えると、オシキセの嫌味な使われないシステムを作ることになる。
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最近、もう一度Webのことを考え直そうとしている。その中で感じていることは、やはりWebは「新しい分野」なのだということ。従来のどこにもなかったシステムやメディアの一つなんだろうと改めて感じている。
そして、新しいモノを古い評価軸の中でマネージメントしようとしているんじゃないかという疑問。C/Sシステムでは、同じ釜の飯を食った単一民族で開発するのが最良だったかもしれないし、それがマネージメントの要だったのかもしれない。でもWebは多民族(様々な技術背景を持った開発者)で作るべきかもしれないし、それが多様性を容認する基盤かもしれない。そして、その多民族を一つのゴールに向かわせるのがWeb的マネージメントなのかもしれない。
そして、それが唯一コンピュータに出来ないことじゃないのだろうか。進捗の数値管理位なら近々に人がやる必要がなくなるかもしれない。人間の気持ちを察しつつ開発を進めること。それはとてつもなく面倒な話だが、実はとてつもなくやりがいのある話でもある。せちがない世の中で、活気のある職場を作り出すこと。それは個々の管理職ができるプロジェクトⅩではないか。
Webの業界は、こうした層の育成を怠ってきた。事実上余力がなかったと言ってもよいだろう。でもすべきだった。おかげで優秀な現場技術者が幾ら居ても、破綻するプロジェクトが続いている。エンジニアとデザイナの確執を制御しなかった故に、互いに背を向ける領域が拡大してしまった。それが、クライアント(顧客)にも、ユーザにも機会損失を招いている。
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「ガンジー」という映画の中で、異教徒を殺した人がガンジーに懺悔をするシーンがある。ガンジーはその人に親を殺された異教徒の孤児を探し、改宗を強制することなく育てろ、と諭す。宗教が生活の中で占める割合の高い地域である。スクリーンを見ながらその過酷さを想い息を呑んだ。
しかし、こうしたことが「共生」と「発展」への唯一の道なのかもしれない。様々な価値観がそのままの形で混在しながら、未来の方向を見つめて行く。そんな今までにないフロンティア。上手く回っているWeb開発現場の多様性許容ノウハウは、別の何かにもつながっていく気がしてならない。
以上。/mitsui