年度末の忙しさの中、沢山の仕事を置き去りにして、引越しをした。久々の肉体労働。いつもは重いPCカバンを持つことにしか使わない筋肉を酷使しつつ、頭の中はWebのことを考えていた。
けれども、この引越しの数日間でネットにアクセスしたのは数回のみ。こんなに意図的にネットから離れようとしたのも初めてかもしれない。キー操作だけで目当ての情報に辿り着ける簡便さとは対極にあるモノを体験した。
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引越しでネットが意味を成すのは、引越し屋さんへの最初の連絡程度。自分の持ち物のリストを入力していっても、結局のところ見積りのプロに来てもらうしかない。我が家は押入れにまで本を押し込んでいたので、プロの見立てでも大きな誤差が出た。積み残しは自力で運ぶことにして、大物だけをお願いする。
家の中という、究極のプライベート情報を、見ず知らずの若い衆に運んでもらう。お金がなかったので、自分でも運ぶのを手伝う。年齢差を感じつつ、いたわられつつ、荷物がトラックの中に消えていく。
一緒に汗をかき、息を切らして、指示もする。昼時にかかったので、誘って一緒にケンタッキー出前を食べる。少しぎこちない会話から、一番若い人が16歳で、妻と同郷であることが分かる。
妻がおどけて先輩面して話す。どこかで顔を合わせていたかもね、と言いつつ、妻がその地に居たときには彼が生まれていないことに気付く。打ち解ける、とまでは言えないまでも会話が弾む。
春の引越しシーズンの忙しさは、Web屋に勝るとも劣らない。布団で寝ていないとか、昨日は一時間でしたとか。急に親近感が沸いてくる。なんだか、後輩のようにさえ感じる。
こんな会話をしばらくしてこなかったことにも気付かされる。Webで毎日のように見知らぬ人と出会っているのに。たわいない会話かもしれないけれど、大切なことだと改めて思う。食後の作業はずっと円滑に進む。会話が潤滑油になっている。
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子供との距離にも影響があった。中一の息子と物を運ぶ。義姉も来てくれていたので、荷物上げ下げの掛け声は基本的には敬語(丁寧語)に統一していた。「持ち上げます」、「ありがとう」、必ず声に出した。引越し屋さんも年齢関係なしに敬語に近い言葉で声掛けをしている。命令口調より温かみがある。
運動部に属する息子に、日頃キーボードしか打たない私が勝てるはずがない。一緒に運んでいても、直ぐに息が切れる。息子がいたわってくれる。少し情けなくも感じる。
高いところの物を背伸びでぐっと引き寄せ、私が支えて彼がヒモで縛る。到る所に棚などを作ってカスタマイズしたので取り外しも大半を任せた。間近に見る息子に、いつの間に、こんなにガッチリしたのかと感心する。息子は一人前扱いされたようで、心なし嬉しそうだ。
娘も頑張ってくれる。優柔不断な妻の買い物に付き合い、即決する。細々とした作業を嬉々としてこなしていく。いつの間にこんなに頼りにできるようになったのか。張り切りすぎて翌日熱を出すまで、十一歳であることを忘れてしまった。
平日顔を合わせることも減ってしまった生活を反省する。こんな頼り頼られる関係や瞬間は久々だ。一緒に汗だくになるなんて、幼時の時以来かもしれない。
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荷物を運び出し、お世話になったご近所さんに挨拶に行く。小さなタオルを添えてお礼を言う。特にお世話になった方と大家さんにはお菓子を。余り仲が良くないと聞いていた、その二人が同じ台詞を返してきた。「そんな気遣いいらないのに、お金使わせちゃったねぇ」。なんだか微笑ましい。
七年間過ごした家の最後の掃除をして、ブレーカーを落とし、水道の栓を閉めて、鍵をかける。築40年ほどの、台風のたびにビクビクしながら夜を過ごした家を故郷のように感じてしまう。子供達の大切な小学校時代を支えてくれた家。感傷的だと思いつつ、感謝の念が湧き上がる。
新居の挨拶廻りでは、挨拶に来たと聞くと家族中が玄関に集まってくれる。分からないことは何でも聞きなさい、と言ってくれる。ご近所さんは昭和30年の分譲で移り住んできた方達が多いとのこと。私は生まれてもいない。
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実は一月前にパソコンの引越しもした。個人データを移し、アプリケーションを入れ直し、ただただ面倒で時間のかかる作業。特にThinkPadからThinkPadへの引越しだったせいもあり、CPUが上がろうと、HDDが倍増しようと、感動は薄い。デザインに殆ど変化がない分、ワクワク感が少ない。業務用という感じ。
利便性を求めて、人との直接接点を敬遠し、デジタルの世界に引きこもりがちな生活だが、人との接点以上に面白いモノはない。Webで出会う感心させられる意見に対しては、間違いなくその人自身への興味がわく。
ここ数日間、ネットに無縁な人たちにばかり会っている。どの方も、パソコンすら持っていないかもしれない。でも、豊かな情報に溢れている。検索可能な情報だけが、「情報」ではない。デジタルで現せるものだけが、「情報」ではない。そんな当たり前のことが頭に浮かぶ。
Webでそれなりの情報検索は可能になっている。とても便利で離れて暮らすことも厳しい。でも、未だWebが伝え切れていない情報がある。将来は、今語られている「ユーザ体験」とは別次元の体験を提供できる可能性もある。
新居の横の公園では、桜が咲き始めた。開花情報ではなく、この春めいていく雰囲気もいつかWebに載せることができるだろうか。
以上。/mitsui"まだまだダンボールの山の中より"