妻と一緒に買い物に行く。夕飯はなにが良いかと問われて、何でも良いと答え、 妻の機嫌が悪くなる。食材を手に取りつつ、自分が何を作れるかを考える。こ れをあーしてこーしたら食べられるかな、と妻に聞く。さぁ、と答えられて、 妻がさっき不機嫌になった気持ちを理解する。
週末に仕事を持って帰らないことはないが、可能な限り、「家庭」内の生活を しようと頑張っている。たわいない会話も、ささいな衝突も、どれもひっくる めて自分の家庭なんだと考えようと努めている。
Web屋としての将来を考えたとき、仕事を終えたとき、自分に何が残るのかを 考えるようになった。そして、何が自分の一番大切なのかということも。究極 的な答えは、「家族」だ。それしかありえない。
家族の健康、家族の笑顔。文部省(今は「文科省」、念のため)的で嫌な言い 方だけれど、やっぱりこれしかない。でも、絵に描いたような、いかにも幸せ というスタイルではないらしい。
私は子供達を愛していると公言できるけれど、既に私の身長を追い抜いた息子 と同じ空間にいるとウットウしくて仕方がない。愛は愛だが、昔テレビで見た ようなバラ色で暖かい家庭などとは程遠い。でも、大切であることに違いはな い。
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我家は、子供が二人。2006年春には、小学生がいなくなる。二人とも中学に通 う。昔、この子達が生まれた頃に蒔いた種が、漸く芽を出しつつある。今思え ば、良い種も悪いた種も蒔いてきた。子供達の生活を見つめながら、自分達の してきたことを思い知らされる日々が現れてきている。
日常的にパソコンを使っているので、その力みは子供達にはなさそうだ。特に
教えた訳でもないのに、何かあるとGoogleで調べていたりする。先日もmixiで
教えてもらった「やわらか戦線異状なし」を見せると、数日後にはピアノで音を拾い、
兄妹で合唱し、教室で広めていたりする。
食卓も「継承」の実践の場だ。貧乏性の私達は賞味期限を見つつ、○割引きの 商品をよく買ってくる。すると、やはり子供達に買い物を頼むと、これ安かっ たよと得意げに割引商品を買ってくる。食卓にラベル付きのものが複数並ぶと、 気持ちは複雑だが、よく伝わっているなと感心もする。
日頃から、嫌味っぽい言い方で教育指導をしている成果も現れてきた。先日、 妻が友人から「あるバラの花を想うと思い出す」と言われたと少し嬉しそうに 話したら、娘はすかさず「トゲがあるから?」と聞き返してきた。鋭い突っ込 みに、少したじろいでしまう。
言葉で遊ぶことも随分と時間をかけて教えてきたつもりだ。まだまだ気の利い た台詞がポンポン出てくるところまでは行かないが、時折微笑ましい会話が成 立したり、見事な揚げ足を取られたりする。既に、教える側と教わる側という 固定の立場はない、互いに教え教わる関係になりつつある。
言葉遊びといえば、昨年のクリスマスは久々に「サンタさんごっこ」もした。 PSPとDSを欲しいと子供達がねだって来るので、サンタさんに手紙を書けばと 誘う。但し、サンタさんは北欧の人だから、せめて英語じゃないと伝わらない と付け加える。
英語の嫌いな息子への誘い水だ。必死で欲しいものと理由を英語で書く。その 紙をツリーにぶら下げておく。すると翌朝サンタから返事が来ている。更なる 質問があり、また頭を掻きながら息子は書く。娘も面白がって参加してくる。
誰がサンタかは誰も口にしない。そういう暗黙のルールを守ることができた。 イブの前日私が量販店からどの機種なのかを電話で聞いた時も、笑いながらも 正体探しはしなかった。○○とサンタさんに伝えておいて、と大笑いしてる。
そしてイブの朝、「サンタさんから電話があって開けてもよい」ってさ、と伝 える(正式には25日の朝に開ける慣わしらしい)。大歓声。電話などかかって きていないことは狭い家なので誰もが知っている。屈託のない笑顔を見ながら、 ちょっと高等なゲームを楽しめるようになってきたのが誇らしい。
でも、誇らしいことばかりがある訳ではない。こうしたところに書けるのが、 笑えるようなことだけだということだ。書けない話が何倍も横たわっている。 私が手を抜いてきた部分、悪癖もちゃんと目に見えて継承されている。生活と いう場の怖さを思い知る。
仕事のように、タスク表を掲げて、ガントチャートで進捗管理などできる話で はない。しかも十年以上かけて漸く目に見えるのだ。自分が何を蒔いたかを忘 れた頃に、まざまざと知らされる。家庭とは、重く怖い場所だ。
けれど、時々思い出す。たわいない会話で妻が笑う時、この人を喜ばすために 頑張ってた出会いの頃を。あんなに一生懸命プレゼントを選び、ドキドキしな がら出会ってた頃を。そして何も色褪せていないことも感じる。
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会社でこんな話をするのを余り聞かない。男たるもの家庭のことをペラペラ喋 るべからず、みたいな雰囲気があるのだろうか。でも、仕事でどんなにでかい ことをやり遂げても、子供の笑顔には敵わない部分が絶対にある。
アクセスログが跳ね上がるような達成感はないけれど、つまんない役でも自分 の子供が学芸会でちゃんと台詞を言えた時のドキドキハラハラは、どっちが上 とかではなく、絶対値として大きく胸に残るものだ。
皆が、自分の大切にしているものを、時々は話せばいいのだと思う。一番大事 なものがなんであるのか、話しながら気が付かされることもある。話している うちに、もっと関わらなきゃと発奮するときもある。
Web屋がどんな子育てをしているのかには、とても興味がある。Web屋の本質は、 コミュニケーションだと思うから。コムツカシイ話題をどう伝えるのか、文化 の違う会社とユーザをどうつなげるのか。こここそが腕の見せ所だ。
そうしたことを本職にしている人達が、文化的断絶状態とも言える若い世代に どうリーチできるのか。残業の連続で、平日は子供の起きてる顔を見ない日が 続いている自分が、「ひさしぶり」とか挨拶しあう親子が、この少子化に対し て何ができるのか、考えただけでもワクワクする。
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そしてWeb制作と子育てには、もう一つ接点がある。Web制作に火がつく(残業 が増える)のは、基本的に要求仕様が変更されるからだ。そしてそれは、私が 思うに、各種の担当者がリリース近くになってから本気になるからだろう。
プロジェクトが始まった時に、何ができるのか、どこまで口出しをして良いの か分からない各種の担当者が、誤解と衝突を繰り返す中で、欲が出てくる。そ うして、ここをもっと良くしたい、ここをもっとアピールしたいと言い始める。
開発末期になって、皆が本気になるとも言える。でもそこからではできること に限界がある。予算を増やしたり、期間を延長したりしない限り、行き着けな い場所がある。
たいていの場合、「あー最初から全力でやっていれば良かった」という結論に 至る。そう、子育てと全く同じ。大きくなった子供達を見ながらつくづく思う。 手遅れにはしたくない。してはならない。だから、二兎追おう。仕事も家庭も。
以上。/mitsui
ps.今週末は風邪でダウン。当然家族に負担がかかる。かけながら、これを書く。 自己矛盾。頭上から「大丈夫?」とか息子に声をかけられながら、再度ムスッ。