桜の季節。一年中、桜の樹はあるのに、春だけがそう呼ばれる。ほんの一瞬の 輝きと、それ以外の長い時間。でもその沈黙のときも、緑が深くなり、散って いきつつつ、表情を変えている。でも、桜の季節は春。
タワワな花の一群を見つめながら、どうしてこんなにきれいだと思うのかと考 える。単純にこの容姿が好きなのだろうか。数日で散っていくのを知っている からなのか。
後者だとしたら、桜の生態を知っていることが前提になる。他の国のことは余 り知らないが、日本ほど桜を愛でる国はない気がする。だとしたら、日本に暮 らす人と観光で留まる人とでは、桜は見える姿が違うのかもしれない。
終わりのあるモノに対する感慨は、この国には深く馴染んでいる。有終の美へ の郷愁ともいえる甘酸っぱくも憧れの感覚。終わりがあるからこそ、今を精一 杯生きているモノたちを、輝いているとも言う。
■始まりのあるモノに終わりがある
満開と散り始めが紙一重の違いの花々を見ながら、仕事を思う。仕事をこなす 能力の頂点は衰退の開始点なのだろうか、衰退の下降線を意識しながら仕事を しているだろうか。
私の決して長くない会社員生活の中での最大の資産は、実は負の遺産だ。DEC という世界第二位のコンピュータメーカに上り詰め、最大時14万人もの社員を 抱えた企業。それが消えたこと。
今でも尊敬と感謝を持ってしか思い出すことのできない数々の経験と優れた製 品群を持つ会社でさえ、未来永劫続くことはなかった。あっけないくらいに沈 没していった。実際は買収される一年前に辞めたのだけれど、その失望と混乱 は目の当たりにしてきた。
始まりのあるモノに終わりがある。この当たり前の事実を、最初の尊敬する会 社で体験できたことは、これ以上ない学びだった。更に、担当していた業務自 体も、終わりを意識するモノだった。
私の担当は、Internationalization。国際化とも訳すが、最初と最後の文字と 間の字数を組み合わせて、「I18N」と呼んでいた。要は米国製のソフトの多言 語化。日本語化し、漢字のような複数バイト文字を必要とする国に対する対応 の基盤を作り、それを米国開発チームにフィードバックする仕事。
それは自分の仕事をなくすための仕事。全ての米国製ソフトがそのまま日本語 を扱えたら、私は「お役御免」である。私を必要としなくなるために、私は頑 張って仕事をしていた。私が成功するほど失業に近づき、手を抜けば延命だ。
そんなに簡単にI18Nが実現できないと知ってはいたが、終わりを意識すること は習慣付けられた。会社を去っても、どこかこの習慣は抜けない。今担当して いる仕事はやがて終わる。きちんと終われるのか。時折自分の中で声がする。
■門出と陳腐化
Webは、そうした意味で天職に近いのだろう。短期間で、その誕生と卒業を経 験できる。終わりの日に備えたことが、かなり近いタイミングで実現する。仕 事の効率とか生産性とかの意味だけでなく、担当者としての「手離れ感覚」と して、「備え」の意味がかなりリアルな職種だ。
任された仕事の内容を考え、クライアントの担当者に負けないくらいに、それ に没頭し、手塩にかけて育てる。そして独り立ちさせる。何か問題があっても、 できる限り「親」を呼ばなくても対処できるようにも考える。
二度と会うこともないだろうと思いつつ、クライアントに納品する。実は、思 い入れたサイトでは涙腺も緩む。納品後に独りモニターで見つめてたりする。 門出を惜しみつつ祝いつつ。
どんなサイトも同じものは一つもない。でも結構同じようなことをして、開発 をする。手ばかりかかる単純作業も多い。それらを、前作よりもどれだけ減ら せたかが、毎回のテーマ。
そして晴れの門出の瞬間から、実はそのサイトの陳腐化が始まっている。情報 は、動的な仕組みを入れ込めれば、多少はそのスピードは落とせる。でも、必 要とされる情報の質は日々変わっている。それは構造に関わることなので、防 ぎようがない。
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桜は既に散り始めている。もう少しその姿をとどめて欲しいと思っても、生き 急ぐように散っていく。でも同時に葉が芽吹く。そして気が付くと、頼りない 緑色が、硬く逞しい夏の葉に変わっている。
同じような繰り返しの中でさえ、同じ年は一度もない。毎年、異なる花が咲き、 異なる葉が茂る。でも遠目には同じ桜の樹。そして、それぞれが独自の桜の樹。 同じ樹も一本もない。
繰り返しは消えていく、たった一度の春を彩る、桜の一房。こんなWeb屋であ りたい。
以上。/mitsui
ps. 最初のレビューアである妻が一言、「あおくさ~」。 再出発に当たって、かなり気負ってます:-)