■人の動きをどこまで尊重できるのか
人が何かを選択する動きを、なるべくスムーズにできるように画面を設計する。 何が操作する人の目に入るのか、何色に注目が集まるのか、どんな動きを心地 良いと思うのか、その動きは飽きられないか。様々な視点から考える。
実際に操作できるものがあれば、マウスを動かす。それがなければ目を閉じて、 操作を想像する。チェスや将棋の数手先を読むような感じ。ここにこのボタン を配置したら、相手(ユーザー)はどう動くだろうか。
FlashのようなRich Internet Application(RIA)の場合、やはり読みにくい。 相手が歩兵のような単純な動きをしない。それでも昔は頭の中だけでやれたと 思っていたけれど(そのレベルしか開発しなかったとも言えるが)、最近は絵 に描かないと厳しい。頭の中に配置できるボタンやテキストフィールドの数の 上限を感じる。
だから、設計の精度を上げるためには、その設計図を工夫するしかない。二次 元の絵を用意して、頭の中で想像させる方法もあるだろう。最初からFlashな どで作って、実際に触れる試作設計図という方法もある。
先日行なった設計レヴューは面白かった。全プロセスではないし、サンプル画 像も同じものを多用していたけれど、画面上の要点だけを実装した「Flash紙 芝居」を複数人で囲んだ。どう使われるかを説明して、動きの説明を聞く。
皆がその操作対象者になった気分で見聞きする。ユーザビリティテストに一般 被験者を多用するよりも、実際の開発者であろうとユーザビリティに気配りで きるプロ数人のレヴューの方が意義があると、私は思っている。
理屈で攻める傾向はあるけれど、対処の仕方も同時に考えるし、集計の手間も ない。どれだけ開発工数がかかるかも知った上で、容赦なく指摘できる雰囲気 さえあれば、レヴューをしながら、「あぁ、これは行けるな」と直感できる。
今回は、最初のメンバーだけでは駄目だと途中から気付き、新たに属性の違う メンバーが加わった。そういったレヴューを何度も繰り返している仲間達だ。 なのに、まっさらな状態でテストに加わる。途中で横道にそれるような意見が あっても、そっちが知りたい訳じゃないとブレーキをかければ、元の道に戻っ てくれる。慣れているし、プロだから、話が早い。
意見を聞きながら、そういった視点があるのか、そういった方法で探すのか、 皆が感心しながら聞いている。そして同時に解決法も探る。人の動きをどこま で尊重できるのかが、やはりこの稼業の本質だと改めて思う。
けれど、違う流れも最近強く感じる。ソフトウェア工学系からの流れなのか、 CASE(Computer Aided Software Engineering)ツール系の流れなのか、何と か自動化しようと頑張っている人たち。
人が心地良く感じるユーザーインターフェース(UI)には決まったパターンが あり、それは対象ユーザーといくつかのパラメータで制御できるものだろう、 と考えているような方々だ。
その頭の切れように感心しつつも、私はもう冷ややかに見る癖がついてしまっ た。結論から言えば、人の動きや心地良さを読みきれたとしたら、それは「人 間」を理解しつくしたという話になるのだろうと思う。もちろん、そんなこと はできようはずもなく、できると信じている人は「人間」をなめているのだと 思う。
■「手作り」に回帰
語り尽くされた話だが、「雪がとけると何になる?」と質問された時に、「春 になる」と答えた人がいたという話。この質問がマークシート方式以前に出さ れていて良かったと心底思う。質問者の想定内だけの選択肢を並べただけでは、 ここまで多くの人たちの心を揺さぶる回答には出会えなかっただろう。
あらかじめ想定した枠内に、全ての人達の行動が収まってしまったなら、それ を設計したのは神様だ。人と話したり、人にサービスを提供したりする喜びは、 時にはうざったくもあるけれど、一人として同じ人がいないという事実に根ざ しているように思えてならない。
最近ファストフードのカウンターでも、そんなことを感じる。五年ほど前まで は、定型のいらっしゃませメッセージを繰り返し、ポテトを頼んだのに、シ ラッとした顔で「ポテトもいかがですか?」とか口にするオウム君が多かった。
でも最近の人はちょっと違う。明らかに笑顔が自然だ。カウンターで向かい合 う人達が、それぞれ違った個性的な笑顔で輝いている場合も少なくない。どう 考えても、採用面接でお客様に笑顔で応えられるかという項目がありそうだ。
ここに定型接待の限界の次のモデルがある。若い子たちに定型台詞を覚えさせ てビジネスを始めたところが、自発的で個性的な接客を求め始めている。時給 千円弱への対価(?)として、同じ言葉を繰り返すよりも、自分なりの接客が できることを喜ぶ若者も多いだろう。
そうしたモティベーションの支え方も含めて、同業他社への差別化が出来る時 代になって来ている。同じことをやらせていては、そのマニュアルが流出した ら、誰でも真似できる。しかし、自発的な部分や個々人のモティベーションの 部分はマニュアルには書けない。
そう、結局「手作り」に回帰しているようにさえ思う。Webが、情報の効率的 流通以上のこと、たとえば「おもてなし感」などまで提供することを考えたな ら、最終的には、この「手作り」の匂いのするサービスの構築に行くのだろう。
この辺りが、Web屋が「システム屋」ではなく、「コミュニケーション屋」と 思える点にもつながる。システム屋は「定型」にこだわりがある。誰がやって も、ある程度まで同じ品質で開発を進めることは至上命令だ。その守られる品 質が高いほど、システム屋としての「格」があがる。
しかし、定型というルールやしきたりがあるからこそ、模倣をやる気になれば 可能な世界でもある。だから、アジア諸国のエンジニアへの恐怖心は根深い。 日本人エンジニアの数分の一という単価で働かれては、競争そのものが成立し ない。
けれど、「コミュニケーション屋」は違う。少なくとも私が深く関わりたいと 思っている、ユーザーに一番近い部分の構築に関して、何も恐怖心はない。日 本語という壁のためではない。日本人相手という狭いマーケットかもしれない が、精一杯の「おもてなし」をシステムとして提供していけるだろう自信があ る。
そもそも自動で構築しようと思っていない。もちろん、システマティックな部 分はある程度は自動生成を目指す。でも、一番ユーザーに触れてもらう部分は、 心血注がなければ成立するとは思えない。そう「手作り」しかない。
そして、そうした手作り部分を最大限に活かすために、他を自動化しようとし ている。近い将来、この手作り感覚が大きな価値の基準点となることを夢見て。
以上。/mitsui
ps.一週間くたくたで、土曜日は午後に目が覚める。おかげでセミナーを一つ逃す。 残念。