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[125] Web屋 2.0

Web屋の仕事とは何か。簡潔に言うと、「情報」を「コミュニケーション」の形にすること。情報が「点」であるならば、それを結ぶ「線」を作ること。そうした点たちが行き交う「路」を作ること。最近強くそう思わされる。

プロジェクトが始まると、いや正確には打診がきた段階から、いつも決まった手順に手と頭が進む。意識するしないはあるけれど、余りブレはない。思い返せば、だいたいこの通りだ。もちろん全部できている訳ではないが。

  1. 現状の「問題」を理解する
  2. 扱うべき「情報」を受け取る、探る、引き出す
  3. あるべきコミュニケーションの「姿」を想い描く
  4. 説明できるまでそれを熟成させる
  5. その情報をその姿に載せる「ルール」を作る
  6. ルールを「ユーザーインターフェース(UI)」の形にする
  7. すべての場面で、そのルールが機能するか「検証」する
  8. 「合意」を取る
  9. 「実装」する
  10. 再度「検証」する

それぞれのプロセスの中で、自分の精度を高めて行こうと、もがいてる。扱う問題も、理想とするコミュニケーションの姿も、ルールも、UIも、検証方法も。前回よりも今回、今回よりも次回。

時代も後押しするように難しくなって来てくれている。単純な情報伝達画面を要求されることは、もうない。それならネット上の棒立ち看板だ。誰かがたまたま見てくれることを期待して、漫然と待つことをビジネスとは呼ばない。ネットという水面に、「Webプロジェクト」という水滴を落としたときに、どんな波紋が、できるのか、作りたいのか、できたのか。それを、ビジネスの観点で説明できなければ、説得力がないと見なされる。

何を伝えるのか、誰に伝えるのか、どう伝えるのか、どう伝わったのか。Web屋は作り手のプロのはずなのに、ユーザの代表に徹しなければならない。一番安価なモルモットは自分だ。コミュニケーション試案を重ねながら、様々な自分にリセットしながら、その試案を試す。自分を追い詰める、「本当に使い易いのか?」、「ちゃんと考えたのか」、何度も何度も自問する。

使いにくいなら、何かが伝わっていないということだ。何かが狂っている。情報の精度かもしれない。情報の品質かもしれない。「ルール」に不整合があるのかもしれない。不整合が違和感を生み、不安感を育てているのかもしれない。

答えを常に探している。クタクタで帰る電車の中でも、深夜に夕飯を食べているときでも、フッと何かが浮かんでくる。こうしたらどうだ。いつも頭のどこかで、探している。手でも探す。描画ツールの画面一杯にキーワードを並べる。丸や四角をちりばめて、順番をとっかえひっかえ、操作しながら、考えを整理する。論理的に思考するばかりが能じゃない。知恵は、手からも絞り出る。

答えを探すことは、そのクライアントのことを想うこと。開発しているときは、そのクライアントの熱烈なファンになっている。オタクやストーカーに近いかもしれない。彼らならこうする。そう考えられる。だから不満も見える。見えれば言う。黙っている方が不義だ。衝突もある。

大抵のクライアントは、プロジェクトが進むに連れて、「要求」を増やす。熱が入ってきたことの証拠でもある。恒例の仕様変更の嵐。少しでも使い勝手のよいものを提供したいので、可能な限り話を聞く。聞き出すことも大切な仕事だ。でも、何でも聞き入れる訳にはいかない。何でもやりたい八方美人は、出来上がった時には、的が絞れ切れない「迷宮」になりやすい。

迷うのは、ルールが不明確になり、特例が増えるから。ユーザはそれらをいちいち覚えなければならない。学習は壁だ。覚えなくて進めることが望ましい。シンプルさは守るべき筋だ。だから時には抗する。その結果、良い関係を持てたクライアントもいれば、逆もある。コミュニケーションは難しい。

受託業者として「お願い」するのではない。パートナーとして「意見」する。本来すべきこと、してはいけないこと、という視点で協議する。目指すビジネスにとって、それは有益か。ユーザーを迷わせるリスクを負ってまで成すべきことか。雇われ、すべてに従う関係では、いいものは作れない。Web屋はユーザーの代表なのだ。

コミュニケーションを作るためのコミュニケーション。そこが揺れたなら、確固たる「路」など作れるものではない。難しい。だから学ぶ。最近は、マネージメント系知識への志向が強まっている。Web技術だけでは、Webは作れない。

人と人との結びつきと、そのコントロール。互いに相手を型にはめようとするのではなく、気持ちよく一緒に働く技術。マネージメント技術。自分の今まで踏んできた衝突という「地雷」がこんなに簡潔に整理されているのかと驚く本も多い。というよりあまりに勉強しなさ過ぎてきたんだろう、人のことを。

でも強い信頼関係が何よりも開発基盤になることは知っている。「仲間」に疎まれたときに浮かぶ言葉は、「カリオストロの城」のルパンの台詞。クラリスが伯爵にかなわないと呟くと、「お姫様が信じてくれたなら、ドロボウは湖の水さえ飲み干せるのに」と嘆く。そう、信じてくれたなら、もっと良いものを創り出せる。

プロジェクトが大きくなると、絡まる導線も多くなる。誰もが、誰かが交通整理してくれることを期待する。でも気付いた人がやるしかない。絡まったものをほぐすのは大変だ。かくして実作業は限りなくWebから遠ざかる。仕事の整理とタスクの整理、結果の検証とテスト。何の仕事だったかを忘れそうな勢いだ。でも、外堀を埋めていかなければ進めない。

「情報」のデザインをしているつもりが、「デザインができる土台」をデザインしている。10人が集まる会議を15分短縮させるような資料を作るために、睡眠時間を削る。皆が理解するために費やす時間を少しでも減らせれば、コミュニケーションは加速されたのだと思う。そんな「縁の下」仕事が増えている。

だから、「視覚化」や「見える化」に惹かれる。短時間に正確に情報が伝達できたなら、無駄な質疑や無意味に長い解説の時間を、別の何かに振り向けられる。そう、もっとクリエイティヴな何かに。

Web黎明期から約十年。Webにつながる人たちは、もはや情報や知識だけを求めていない。共感や連帯感、共有感や情緒や、思い出や記憶まで、つなげることを求めている。共有できる誰かと、顔の見える仲間達と、そして自分自身と。

ようやくWebが一般化され、テレビCMでもURLが示される今だけど、ユーザーの求めるものは遥か上空を舞っている。それを地に根ざすことができるのは、技術やお金ではない。熱意あるクリエイティビティなんだと信じてる。

そんなクリエイティビティの第二波の胎動も聞こえる。色々な場面で、まったく世代の違う活気ある声が聞こえる。HTMLを覚えたての頃の記憶とか、 Flashに出会った喜びとか、私とは全然共通項目のなさそうな世代。大学の頃から何でも検索できた世代。一番多感な時期からケータイでどこでもネットできた世代。考え方も違ってて当然な世代。羨ましいほどワクワクする。

次世代に引き継ぎたいもの、継ぎたくないもの、広がって欲しい新しい波、消え去って欲しい新しい波、いまだ形にならない誕生したての雫。清濁併せもった状態が、まだまだ続くんだろう。理想形には未だ遠い。そもそも理想形自体も変化する。ネットには自浄機能がある。不純なものは廃れ去ると信じて進む。

Webは他メディアに比べて未成熟だとよく言われる。でも、こうしたユーザーの要望や新世代や玉石混淆を受け入れるだけの許容度は、人間で言えば成熟したマチュアな者にのみなせる業だ。「転がる石にはコケは付かない」、当初の意味から異なる意味で使われるようになったこの言葉を思い出す。メディアの成熟度の定義も、数年後には変わっているのかもしれない。

Webのことを書くたびに、自分自身の中で熱い想いが奮い起こされる。Web屋をやっていて、楽した経験はない。他の定型業務がこなせたならどんなによいだろうと、逃げ腰になったこともある。悔しさと辛さに、終電でコブシを握りしめた日も多い。でも、自分で笛吹き自分で踊ってでも、この世界から離れがたい。

ビジネス主体であるクライアント、情報基盤を構築するプロのシステム屋、そして、利用者とのコミュニケーションを円滑にするプロであるWeb屋。その三者が、今後のユーザとの信頼関係を築いていくコア要素になるだろう。Web屋への期待もプレッシャーも、ますます重く、厳しく、ワクワクしたものになるはずだ。

昔、水道が村と村とを結んだように、電気が町と町とをつなげたように、Webは、情報と人を、モノと人を、人と人を、人と気持ちをますます結んでいくだろう。誇りある仕事の重なりの先に、ちょっと素敵な未来が垣間見える。

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、その日を待ち望む。

万軍の主は仰せられる。――
わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
あふれるばかりの祝福を
あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
   聖書 マラキ書 3章10節

ps.
大嫌いなNielsenの対談を妙な縁で翻訳担当。否応なしにまさに一語一語見つめました。正論です。9/29発売の「Web Site Expert #08」(技術評論社)。

今期は今回最終回、ご愛読ありがとうございました。再見!

初出)[2039] Web屋 2.0 : 日刊デジタルクリエイターズ