コンペに呼ばれた場合、結果がどうであれ、その審査については細かく訊かせて頂く。様々な審査情報提供は、コンペのお誘いをしてきた側としての説明責任だと思っている。評価の仕方、どこがどのようにマッチし、どこがミスマッチだったのか。担当者には、最高の説明プレゼンを期待する。作り手が全力で提案をするのだから、それは最低限の礼儀だろう。コンペに参加する側にとって、失注した場合の報酬はそれしかない。
その時に交わされる言葉は、実は後々の関係に大きく響いてくる。勝敗にかかわらず大きな教訓となる。最近勝ち取った案件で一番嬉しかったのは、「一の情報を出したときに、平均値として七から八の応答を期待できると感じたので」。提案に持っていった「案」だけに反応してもらえただけではない、今後長い道のりを歩んでいく際の「期待値」や「潜在能力」を評価して頂けた、と素直に嬉しかった。
これから一緒に歩んでいきましょう、よろしくお願いします。そのように脳内翻訳機が働く。テーブルに並べられた少ない情報からも、高品質なコミュニケーションを構築しようとする意思と、恐らくはそれができるだろうスキルの見極め。更に情報が増えたなら、より高品質なものが出来上がるだろうという期待。いちいち細かな指図をしなくても、自律的に物事を進めていけて、それでいてクライアントの想いからそれていない。一緒にクライアントのビジネスを創って行けるパートナー。つまらない仕事を外出しするのではない、外部ブレインを設ける感覚に近い。
戦略的クライアントは、そうした機能を期待している。未だ未だWebサイトを単なる「HTMLの塊」的に考えている方々も多いけれど、言われたとおりの作品を綺麗に作り上げるスキルに興味を失っているお客さんも増えてきた。ありきたりのサイトを作りたいのなら、徹底的に値段を叩ける環境でもある。オーダーメイドを狙うのであれば、クライアントが自分達にない発想を期待するのも道理である。
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そんな風に考えると、サイトの創り方には、大きく分けて二つのタイプがある。指示をしてその通りに作って行くタイプ。ともにアイデアのキャッチボールをしながら、よりよいものを創り上げようとするタイプ。前者を「管理型」、後者を「協走型」と、私は心の中で呼んでいる。
どちらが幸せなプロジェクト、という話ではない。管理型にも、クライアントの担当者自体の発想と知識が大きい場合から、かなり勘違いの積み重ねをしている残念な状態のものまで、様々だ。前者は明確なディレクターが存在するようなもので、低スキルのWeb屋であっても良い結果が残せる場合もあるだろう。逆に後者の場合は、振り回される分だけ、どんなにスキルがあっても、いやかえってスキルがある方がプロジェクトチームとして破綻を起こしやすいとも言える。
協走型も、方向性がぶれない走り方もあれば、あっちに行ったりこっちに行ったりで行き先が定まらない場合もある。アイデアが四散するとかなり「狂走」に近くなる。けれど、こちらのタイプでは、基本的にアイデアが膨らんだら、その実現のために予算を新たに獲得してくる必要性が出る場合も多い。互いが共鳴しあって、更に上を目指す場合だ。発想力と予算獲得能力とのせめぎ合い。互いの専門分野での競い合い。
えてして、歴史と記憶に名を残すプロジェクトは、こうしたせめぎ合いをしているものが多いように感じる。裏話をあとで聞くと信じられない状況がそこにある。もしかしたら、全て想定内の平坦なプロジェクトなどないという偏見の目で見ているからかもしれないが、作り手内で何かしらの建設的緊張感があった方が、できあがりは良い傾向にあるように見える。
作り手が搾り出したアイデアに、クライアントが恐縮してしまう場合がある。それをここに使うのはもったいない、と言ってくれる。逆に、クライアントのガッツに、作り手が襟を正す場合もある。お互いが、もう一歩先を見据えて、踏み込みあっていったから創り得る「場」が存在する。単なる雇用関係を超えて、「戦友」という言葉が似合う場。
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そういえば、Webプロジェクトでは、平時の友という感覚からは遠い。そういった平安のうちに始まり終わるプロジェクトを余り知らない。常に背伸びし、常に欲張って、自分の首を絞めるかのような歩みをしている。自分のスキルの限界なのかもしれない。もっとスーパーマンなら、余裕の笑みを浮かべて進めるのかなとも思う。そして、そうなろうともがいている。常にブラウザで情報収集しているのは、そんな焦りの現われでもある。
そうしたもがきの中で生まれてくるWebサイト。きっとそれが人を魅了するのだと思う。老舗のお店に行って、まるで落ち度のない接客を受けたとする。でも、その笑顔の額に汗が光るのを垣間見たとき、この「たたずまい」の裏に脈々と流れている努力を知る。同時に、あぁこの超人も単なるスーパーマンではなくて、努力するスーパーマンなんだとほっとする。嬉しくなる。そしてその店のファンになる。気落ちしたとき、挫折したとき、そんな時に、何故だかその笑顔を思い出す。その汗を思い出す。そして頑張ろうと思い返す。
ITという言葉の前に、情緒的なものは無力のように語られることは多い。でも、実は人々の心に伝播して行っているモノは、技術ではないように思う。情報でもないと思う。それを伝えている人たちの影、人の姿としては見えないけれど、存在感というか雰囲気というか、そのようなもの。サイトを訪れる人たちには、それを感じ取るセンサーがあると疑わない。だからこそ頑張れる。
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今や自分の会社のサイトを持っていないところはないだろう。誰もが持っている。そして、それは無料GIFパーツを組合せば、信じられない値段で構成できる。作成する側としては、ファーストフードのバイトよりも単価は安い。法的最低賃金の意味からもかなり酷い状況もない訳ではない。発注者側にとっては良い環境なのかもしれない。
でも、世間が見忘れていることがある。今ほど、小さな会社ですら見られている時代はないという事実だ。10年前、自分の会社の「会社情報」を求める人がどれほどいたろうか。道順を探すためだけでも、人々はサイトに行き、「ついでに」様々な情報を見て、瞬時に何らかの判断をして、そこを去っている。
その重なりを、まだ分かっていない人がいる。時にそれは、莫大な予算をかけたTVコマーシャルよりも深く人々の心に残りうる。そのあたりが、Web屋の腕の見せ所であり、コミュニケーションの面白みでもある。
自社ビルを持ち、それなりに趣向を凝らして玄関を作るように、サイトは深化していく。社員以外で、玄関を通過する人数と、自社サイトを通過する人数とでは、今でさえ差がついているだろう。経営という側面から見て、それが何を意味しているのか、自分がITに疎いからと言って放置して良い問題なのか、様々な手を打つ余地として、深く広く問題として横たわる。そこにどんな解を求めるのかで、お客様への想いが透けて見える時代が来る。
それは私企業だけではない。官公庁サイトは、更に強い関心をもって見守られている。今回の選挙でも、政治というお上の領域にあったものが、更に少し近くに寄ってきた。長い目で見ると、自分の年齢にも関係するのだろうけれど、随分と考えている時間が増えている。それは関連語を検索をしている時間となっても現れている。
が、真摯に語りかけているようには思えないサイトが多すぎる。PDFを置けばいいと思っているサイトが多すぎる。マージンもパッディングもないレイアウトにテキストだけが流し込まれているサイトが多すぎる。それで主権者である国民に見せるのかと呆れる。私が検索したくなる問題なのだから、他にも多くの目にそのページはさらされてる。にもかかわらず、酷い。情報提供側の神経を疑うレベルなのも多い。
「情報発信」。Web以前は、一般の人にとって手も届きにくい彼方にあった。それが、今や自宅で無線LANで5万円PCでアグラをかきながら見て回れる。ケータイで満員電車の中からでも見れる。すごい時代になったと思う。でも、もっとすごい時代が来るんだろうと期待しつつ、それを確信している。そんな中で、支持され、生き残るのは、やはり真剣な人の営みだと信じたい。
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もがきながら、一手先に居たいと思う心。その積み重ねが、そうした協走に値するパートナーと認められる唯一の道だろう。Webに接し始めたときの感動と興奮、それは頑張ればすごいことになるという漠然とした希望を含んでいた。経済的にダウンしている現状とはいえ、その部分はなんら変わっていないことを思い出す。そう、クライアントの言葉で。
「信じてくれるなら、泥棒は空を飛ぶ事だって、湖の水を飲み干す事だってできる」、名画「カリオストロの城」でのルパンの言葉だ。信頼を得て、全力以上の力を出せる自分達を想像する。そこから見える景色はひときわ美しいに違いない。