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[142] あるADのつぶやき:伝えるべきことと、伝える方法と

「そりゃないな」、ボソッとアートディレクタ(AD)がつぶやく。リニューアルをしようとしているサイトや、その競合サイトを皆で見ながら、共通意識をもつための場で。

何を伝えようとしているのか、どんな機能を持たせようとしているのか、常日頃からそういった視点でいるからこその即断に聞こえる。「馬鹿じゃね」とか「意味わかんね」などのはき捨てる言葉より、重く響く。伝えるべきことと、伝える方法とのミスマッチを突いている。「表現」がすべきことを見極めているからこそ、か。

時代と技術は複雑化の一途を辿っている。でも、その受け手の人間の処理能力は、それほどのスピードでは多機能化はしていない。だからこそ「表現」の持つ力の大きさに期待が高まる。人間の処理能力と処理傾向に関してのノウハウと、今までの実績的経験値が、重なり合って高度な判断をしているのが伝わってくる。

しばらく操作をして、またつぶやく。「あぁなるほどね、これがしたかったのか」。触ってみて、操作してみて、設計思想を探ってる。そして続ける、「でも、そりゃないな」。見た目だけではない部分を評価している。

多くの人が誤解しているけれど、設計思想はキチンと伝播する。いい加減に作られたものは、いい加減さが滲み出る。そしてそれはWeb屋にのみ分かるものでもない。Web屋はユーザの行動傾向を体系的にまとめて言葉にする能力が長けているのであって、感じる部分では差はないのだと思う。Web屋は自分が抱いた少しの不快感を、一般的にはどうかなど分析する能力が少し高い人のことなのだろう。

触ってみて、「こーいう使い方を想定していないのか」と失望することは稀ではない。その想定の狭さは、設計思想に依存しているし、万人にマッチするモノがそう多くないことを考えると、多分多くの人がそれなりに感じていることなのだろう。どんな人にどんな風に使って欲しいのかがミスマッチな製品は触っていて可哀想にすらなる。不憫というか不幸というか、もっと考えてくれる人の下に生まれていたら、などと考えてしまう。

IT業界は、宿命的に技術寄りの判断が盛り込まれることが多い。でも、技術主導の結果、てんこ盛り状態で、何のための誰のためのものなのかが分からなくなってしまったものも多い。Webはもはや万人受けを前面に打ち出すことから一歩引いている。製造業でさえ、多品種少量生産+カスタマイズという複雑な工程を経て消費者にモノを届けようとしているのに、一群の画面を用意すれば万人に伝わると考えること自体が甘えと見える。

適切な対象ユーザに適切な表現を。Webの軸足は確実に「絞る」方向に向いていると言えるだろう。誰に何を伝えたいのか、その問いかけの重みはプロジェクト初期の大きな課題であり、開発チームのぶれてはならない共通認識の要だ。自分達の語りかけるべき人の姿をペルソナなどを使って常に意識しようとしている。

けれど、4大メディアの広告費が減少していることからも、マイナーだったWebは今やメジャーである。少なくとも相対的にはそう言える。続きはWebで。多くの人が言われなくても詳細情報や確認を求めてWebを活用している。その意味では万人のためのものでなければならない。メジャーであることの責任の重みを、ユーザビリティやアクセシビリティという視点でカヴァーしようと、バランスを取っている。特定の人に語りかけつつ、万人も無視しない。込み入ったテーマになればなるほど、微妙な配慮が必要とされる。

だからこそ、IT業界という技術一辺倒で突き進んでよい世界で、デザインが必要となり、研ぎ澄まされ続けてもいる。そして、デザインが研ぎ澄まされているからこそ、技術オタクの世界ではなく、多くの人のための情報のルツボとなりえて、メディアと呼ばれる一面も色濃くなっているのだろう。

デザインや表現の部分が担う領域は広くなっているかどうかは、技術の広がりも大きいのでそれこそ微妙だが、少なくとも深くなっている。表層的な部分ではないところでのコミュニケーションの形態探しは年を追うごとに鋭さを求められている。

でも、それが育つ環境にあるかといえば、心もとないというのが正直なところだ。エンドユーザとのコミュニケーションを望みつつ、経済的状況から短絡的な結論に飛びつかざるを得なかったように見えるサイトも多い。見栄えの派手さで、エンドユーザの気持ちをつかんだと勘違いしているサイトも多い。「そりゃないな」とつぶやかざるを得ない場面は決して減ってはいない。

そのADは「そりゃない」という言葉を発しながら、要件として与えられた事柄を、適切な表現に落とし込んでいく幾つものルート自体をも考えているようにも思う。逆算して、その表現に与えられた要件を考えているようにも見える。検討会議の様子まで見えているのかもしれない。

そりゃないと言われるほど未熟な「表現」が、何故そこでとどまってしまったのかまでも推測する。プロセスへの視点は、言葉数が多くなくても、自分達のプロセスへの視線に影響する。反面教師的に、べからず集的な意味で刺激に満ちている。自分達の足元も見直さざるを得ない。

Webは、誰かに何かを伝える場を作るものでありつつ、その開発現場でも様々なコミュニケーションとディスコミュニケーションとが織り交ざる。そう考えると、どこからがロウンチ(公開)と考えるのかも面白いかもしれない。設計思想が滲み出るのなら、プロジェクトのキックオフの時点からの裏側のドタバタが透かし絵のような状態で、シナリオを書き足しながら演じている即興劇。そして公開してからもそのドタバタは決してなくなることはない。伝え伝わるという状況を作り出し続ける場に、沈静化した安定などあるはずもない。

そうした終わりのない劇を演じきれるだけの舞台設備を、デザインと呼んだり表現と呼ぶのだろう。だからこそ、演じる人たちの力量にマッチし、観客達の受容度にマッチした舞台でないと破綻が起こる。破綻が起こらないように、なんらかのルールや制限は設けるが、自然発生的に起こるポジティブな波自体は制限したくない。そこに舞台監督としての力量が現れる。

「そりゃないな」と言われる状況があるならば、「そうくるか」と唸る場面もあるはずだ。語るべき相手にそう思われる舞台作り。それがWeb屋の制作現場。リアルなツブヤキが、目指すべき方向性を示唆してくれている。

以上。/mitsui