米国で表紙を見て惚れ込んだ本(全部は読んでないけど)。でも邦題は「ユーザビリティの法則」。翻訳が致し方ないのは理解しているつもりだが、オリジナルの味をもう少し加味できなかったのかなぁと時々思い返す。
Don't make me think !
- 翻訳/翻訳案
- 【標準】私に考えさせないで!
- 【意訳】私、困ってます!
- 【意味】キーッ、訳わからんわ、もう!
- 【真意】いー加減にせーよ、客をなめとんのか?
- 書籍
そんなことを思い出させてくれるお話が、らばQに載っていた。キーッとなっている(かどうかは分からない)お婆ちゃんのために用意したTVのリモコン。
「おばあちゃんでもリモコンが使える、とてもシンプルなやり方」:らばQ
笑っちゃうほどシンプル。 でも、これなら迷いようがありませんね。 DVDプレイヤーは[再生]と[電源]ボタンのみ。 テレビの方は[チャンネル変更]、[音量]、[電源]ボタンのみ。
先ずこの記事を見て引っかかるのは、「お婆ちゃんでも」の「でも」。お婆ちゃんがTVリモコンを使えないというのが、さも常識のように説得力を感じてしまうところが問題だ。私の知る限り、「お婆ちゃん」は私の数倍TVを見ている、とうか彼女のいる部屋のTVはつきっぱなしだ。にも関わらず、操作に長けていないことが常識化/定説化している。
お婆ちゃんが本当にヘビーユーザかどうかはデータがないので分からないけれど、一番使うと思われる人が一番使えていないという状況は、UX(ユーザ体験/User Experience)に関わる者にとっては、かなり忌忌(ゆゆ)しい問題だ。更に、そんなものだという雰囲気が、自分の中にも普通に漂うのが尚まずい。
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手元のTVリモコンを眺めつつ、やはりボタンは多いなぁと思う。そして使用するボタンは、このお婆ちゃん程ではないけれど、かなり限定される。更に、我家もTVとDVDを統合できなかったので、リモコンは2台。常に両方持たなければならない煩わしさは、かなり腹立たしい。実際テープで合わせちゃおうとか考えたこともあるし、学習リモコンにしようかとも考えた。
引き算のデザインというか、シンプル化の流れは、言葉の上ではここ数年の主流だろう。ゴテゴテしたものよりもシンプルなものを望む傾向は、様々な場面で嫌というほど顕著だ。しかし、最終的に出来上がるもの(手にするもの)がシンプルである確率は余り高くない気がする。
このリモコンもそうしたシンプル化プロセスを経て来たのだろうか。実際に使い難い(決して使い易くはない)結果を見れば、この開発プロジェクトでは、何かしらの失敗があると言うしかない。では、何が失敗をさせたのだろう。
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他にもあるかもしれないが、大別するとこれくらいだろうか:
- A)UX的な視点が開発プロセスに入っている場合
- A1)プロジェクトリーダーの知見不足
- そもそも無理解(=知らなければ導けない)
- レベルの問題(努力したけど低次元)
- A2)担当者(デザイナ+エンジニア)の知見不足
- そもそも無理解(=知らなければ対処できない)
- レベルの問題(努力したけど低次元)
- A3)採用した方法論がチープ、あるいは残念なもの(レベルの問題) = 頑張ってはみたがハズレだった、あるいは判断ミス
- A4)予算的/時間的な問題でやむなくUX部分を断念
- B)UX的な視点がそもそも開発プロセスに入っていない場合
- B1)そもそも知らない(気付きようがない)
- B2)意図的に無視(不必要と判断=自分達の知識だけで素晴らしいものが開発できるという自信、或は奢り)
- B3)予算的/時間的な問題でやむなくUX部分を断念
そもそも、UX的な視点とは、利用者の求める(求めない)ものは何か、ユーザが喜ぶ(嫌う)ことは何か、を考えながら開発を進めることで、そのための手法としてペルソナやシナリオやユーザテストなどがある。
でも、UXとは、知識として知らなくても、出来上がったリモコンを見て、「ほぼNHKしか見ない人が週に一回他チャンネルを見る生活をしていて、これで便利か」を考えられるかというコトだし、「食事の支度をしながら間違えないで見たい番組を常に選べるか」をテスト/検証しようとするかというコトだ。
UXというか別人格の人の立場でモノを考えられないと、可能かどうか(スペック)だけを見て、便利であるかは二の次にしてしまう傾向になる。でも便利かどうかを考えられると、誰にとって便利かという問題に直面し、だからこそ対象ユーザをどの層に絞るかが問われ、販売戦略そのものに触れざるを得ない。開発者自身が、そこに関与することで、言われたことに対処するだけの「他人事プロジェクト」から、自分で熟考した「自分事プロジェクト」に昇華でき、プロジェクト自体に命が吹き込まれる。活性化されたプロジェクトに、戦略の根底にある仮説などが正しいなどの追い風が吹くと、ビジネス的な大成功に化ける好循環に入る。UXが多くの場面で大切だと言われる所以である。
今現在、UXの宣教活動が充分かどうかという問題はあるにせよ、上記のリストを見ると、確信犯(B2)を除いて、人選を含めたプロジェクト設計時にほぼ勝負が決まっているようにも見える。つまり、かなり初期の段階から、見る人が見れば、このリモコン(実際には「テレビ」としての製品)が、どの程度のものになるかは予想がつくのだろう。
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予想がつくことが正しいのであれば、このリモコンが「失敗である」としていることに問題があるのかもしれない。誰も失敗するためにプロジェクトを進めることはないし、誰も勝算もなしにビジネスは進めない。この商品が世に出続けているいうことは、「失敗」とはカウントされていない証拠なのだ。
つまり「お婆ちゃんは困っても良い」という前提があるのではないか。それが、自分の中にも漂う雰囲気として存在しているのではないか。多少不便でも我慢して使えば良いや、という変に大人っぽい諦め。あるいは、値段相応なんだから、そこまで求めちゃ可哀想だと無意識にでも考えているのかもしれない。更に、お婆ちゃんは、偉い企業が作ったものをちゃんと操作できないのは自分が悪いんだと思い込んでいる可能性だってある。
でも、だからといって、これは本当に「失敗」ではないのだろうか。少なくとも私は今使っているTVメーカーのは二度と買わない。懲りた。でも、私は貧乏性で結構モノ持ちが良いから長期戦となり、メーカーの売り上げには誤差ほどにも影響しない気がする。気がするが、この会社にとっては望む未来ではないはずだ。痛くない小さな失敗がここにある。
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iPadのようなUXの勝利的な話は大々的に報道されるけれど、失敗の方は余り語られない。UXだけが原因と断定できないし、分析する側もUX的な評価を避けているようにも見える。でもUX系の人間から見れば、全てのことがUXに関わるし、「ユーザは自分達が望まないモノにはお金を払わない」という大前提に従った結果が起こっているようにしか感じない。だからこそ、ユーザに目を向けて「望まれるモノを売る」という根本に立ち返るしかないんじゃあないだろうかと常々思う。
そのためにも、どうすればこの失敗が「失敗」としてカウントされるのか。やはり、「困ってます」と言うことなんだろう。あるいは、「いー加減にせーよ、客をなめとんのか?」か。利用者が本心を語ること、それが製品を育てる根源なのだろうと思う。語り続ければ、いつか聴く耳も育つはずだ。
しかし、毎日山程「○○製リモコン、サイテー」とTweetされたら、開発者は参るだろうなぁ。でも、それで良いものが出てくるのであれば、良い試練なのではなかろうか。
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ちなみに、私の望むリモコンは、ダブル型。1つは最低限ボタンでちっこいヤツ、カード型でもOK。もう一つは小型キーボードタイプで左右両手で持つ感じのヤツ。この二つが美しくドッキングもできるし、後者はTVやDVD本体にしまうことも出来るイメージ。現在主流のスティック型リモコンは、チョイ操作にはゴチャゴチャ過ぎで、予約録画やタイトル入れ等の複雑操作にはよりメンドウな中途半端なものに感じる。操作シナリオが違うんだから無理に1つにしないで分割した方が良いんじゃないか、と。
以上。/mitsui
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