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カッコ良く死ぬという自由

クローズアップ現代で「“凛(りん)とした最期”を迎えたい」を見る。自分の生を終える形を選ぶという自由さについて。医療の発展に伴う延命治療の高度化と、そのパッケージ化と、本人の意思と残される者たちの気持ち、そして責任問題としての医師の立ち位置。

色々なモノから自由を勝ち取って行く事が、進歩であるとしたら、日本はかなり最終コーナー付近まで来ているような状況なのかもしれない。けれどあと少しという所で様々なモノが足に絡み付くのも世の常。高度に発達した医療は、「濃密な医療」と呼ばれるそうだけれど、それが死に行く本人の幸せや想いを飛び越えて暴走しつつある。

残される者は常に辛い。でもその者たちを満足させるために息をし続ける側も辛い。来るのに時があり、去るのに時がある。そんな人生観をカッコイイと思う風土の中で、その最後の自由をどうにかする動きが始っている。救急車は呼ぶな、蘇生はするな、そんな自分の死に方レシピを事細かに生前に紙に記す。それを単一の病院に対してだけ友好としないで連携をさせていこうともあった。

本人の意思をサーバに保管し、何かあった時に救急隊員or医師がそれを確認できる仕組み作り。単なる○×チェック票だけでは有効性が低いので、当人が何を人生の中で大切にしているのか(友人との会話などが例として記されていた)なども記し、それができなくなっても生きたいと思うかを、その情報を参照する者に問う。更に、本人意思だけでなく、代理人というか本人と話して納得したor説得させられた人のサインもあるようにする仕組み。

医療の発達がなければ、バカバカしいと思えるようなお話だ。でもそれがリアルな現実になっている。生かそうと思えばある程度の期間であれば生かす事ができる現実。でもそれは生きているのか。それが生きている事ならば、今はどうなのか。臨終から、平時の生き方の定義を問い直すような状況が差し迫っている。何に満足していれば、生きていると言えるのだろう。そんなことを考えずに生きている事ってどうなんだろう。

仕事柄、そうしたデータの管理の話になると、色々と脳内の特定領域が活性化する。どういったデータ構造にすれば良いだろう、どういった本人認証をすれば良いだろう。肌身離さぬ何かのデバイスを救急隊員が先ずチェックする様子、NGサインが出た時に、何も手を出せない状況ですと告げるしかない状況。それでも泣き出されたらどうなるのか。デバイスを失くされた時の対処法、再発行の方法、心変わりした時の対応。システム的な部分にだけ目をやると、不謹慎だと思いつつ、面白い分野だと思う。

でも、できる事と、してよい事とは全く違った事柄だ。その線引きをわきまえる事を、品格という。品格にはもっと多くの定義があるだろうけれど、「できるけれどしない」という姿勢には、それこそ「凛」とした何かを感じる。それを誇りと呼ぶのか、美意識というのかは、分かれるかもしれないけれど、ようはそういう範疇の事柄だ。今日本が失いかけているのはこの分野であり、今日本が世界に示す/問うべきこともココのような気がしてならない。

そして、もう一つ。本人が意思をどう決めようと、死後の話にも決着をつける必要もある。オウム以降、日本では宗教的な話を避けるまでになってしまったけれど、自分の魂が肉体が滅んだ時にどうなるのかは、年齢が増す程に笑い話では済ませられない色合いが増す。漠然とした、人によっては明白な恐怖となって、日常にまとわりつく。自分は一体どこに行くのだろう。禁句にして避けている場合ではないかもしれない。

心を隠す必要のない者たちと同じ所に行ける安心感は、最後の希望と呼べるものかもしれない。だから、生前に生死観を明確に語れる人と論じ合った方が良い。どの宗教が良いかという話はここではしない。面倒な争いになり易いし、どの方式で葬式をあげるかという形式論になる気がするから。純粋に「信仰」の問題だ。宗教や宗派の問題ではない、何を信じているか。

それは、とりもなおさず、生をどう捉えているかに関わる問題なのだろう。

緒形拳の遺作「風のガーデン」を思い出す。全部の答えをくれた訳ではないけれど、凛とした風を感じさせてくれた作品だった。