「復活するアルカイダ」。狂信的な者の聖戦(ジハード)から、未来に絶望した者たちの聖戦に。対象が、社会から未来に変わって行ってしまっている気さえする。
広がっていくモノには何かしらの原因や理由がある。アルカイダが若者たちを取り込めているのは、若者たちの不満に目を向けているからとも言える。逆に言うと、欧米や富裕層はそこを見ていない。社会への絶望は革命を産んできたかもしれないが、未来自体を放棄している者たちにはバイオレンスしか打つ手が無いと見えるのだろう。アラブの春の失敗という評価も、春自体の問題ではなく、夏へ秋へと時間の移ろいを考えなかったプロセスの問題だとも言える。未来をきちんと考えるならば、もっと違った未来もあったろう。
聖戦(ジハード)。世の不正を正すために命を捧げるものは聖であり、不正にまみれた者たちを救い出す使命を持つ。命の価値を認めていないにもかかわらず、命を投げ出す者を美化する呪文。にっちもさっちも行かない状況下で、差し出せるものは命しかないと思う気持ちは、正直理解できる。自分の命を投げ出せば、不正義が少しでも減るのであれば、喜んで捧げるという想いに不純さもないのだろう。でも、命を粗末にする癖は常態化してしまうものだ。清い想いの犠牲の先に、清い理想郷が待っている訳ではない。
歯止めの第一歩は、不正義をおかしいと皆が意識することだ。重い言葉だ。メビウスの輪のような食物連鎖の図を思う。上位にいる富裕層が自分達の守りに入れば入る程、格差が広がり強まっていく。覆せないほどに強固な格差の牢屋ができ、選ばれた者と選ばれざる者たちとの差が深まっていく。その深い溝が増々貧困層の若者たちを混乱に呼び込んでいく。その混乱から身を守るために、増々富裕層は上位に対比し分離していく。この負のスパイラルを断つのは、富裕層側からしかあり得ない、弱者側は打つ手が無いところまで追い詰められているのだから。
昔、ハンバーガーを1個食べることが、最貧国の子どもたちを思うと恥ずかしくなるという流れが一瞬あった。もう少し世界を見ようよ、自分達のことだけじゃない世界を見ようよ。そんな風潮。それがいつの間にか大きく深く変わってしまった。分かっているのは1つだけ。このままじゃあヤバイ。